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記号とは?/ セントラルファイナンス

[ 580] 初心者のための記号論:記号
[引用サイト]  http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/kigou/kigou.html

記号を構成するものに関しては、二つの主要なモデル、言語学者フェルデナン・ド・ソシュールと哲学者チャールズ・サンダース・パースのモデルがある。これらは、順次議論していく。
現在、基本的な‘ソシュール流の’モデルが共通的に採用されているが、ソシュール自身のものより物質的モデルになっている。記号表現は一般に記号の物質的(または物理的)形式 (form)として理解されている−それは見る、聞く、触れる、匂いをかぐ、味わうことができる何
ソシュールのモデルを採用している解説者は、記号内容が間接的に世界の事物に言及しているかもしれないとしばしば言っているにもかかわらず、記号内容を精神的な構築物として扱っている。ソシュールの最初の記号モデルは‘指示物を括弧にいれていた’;つまり、この世界に存在する対象への指示を除外していた。彼の記号内容は指示物として直接に同定されず、心にある概念である−事物でなく事物の観念である。何故、ソシュールの記号モデルでは指示するのは概念であり、事物ではないのだろうと思っている人もいる。哲学者スザンヌ・ランガーの意見が(ソシュールの理論には言及していないが)参考になる。現在の研究者のように、ランガーは言語記号に対して、‘シンボル’という言葉を使っている(ソシュール自身はその言葉を避けた):それは対象の代理ではなく、対象に対する概念の乗り物である...。我々は事物について語るとき、事物そのものではなく事物に関する概念をもっている;シンボルが直接的に意味するのは、事物でなく概念である。概念への行動は、言葉が普通引き起こすことである;これが思考の典型的な過程である。‘もし私が“ナポレオン”と言っても、彼を紹介するようにヨーロッパの征服者に頭をさげる訳ではなく、単に彼のことを思い浮かべるだけである’と彼女は加えている(Langer 1951, 61)(Langer 1951,61)。
記号表現と記号内容の関係が恣意的であると認めたとしても、直感とは逆に、記号表現が記号内容により決まるのではなく、記号内容は記号表現により決定されるという人がいるかもしれない。まさしく、フランスの心理分析家のジャック・ラカンは、ソシュールの理論を変更し、精神における記号表現の優位性を強調した。彼は、ソシュールの記号モデルを準代数的記号の形に書き換えた。そこでは(記号表現を表す)大文字‘S’が、(記号内容を表す)小文字でイタリック体‘s’の上に来る。両者は水平の‘柵’で分離されている ((Lacan 1977, 149))。これは記号内容が必然的に記号表現の‘下にスリップし’、境界を決めようとする我々の企てに抵抗するというラカンの主張を表している。ラカンは詩的に、ソシュールの音声と思想の面に関する図に次のように言及している。‘創世記の写本からの縮図の上の水と下の水の、波状の線に似せたイメージ;二重の流れは雨の筋の痕跡である'。これは記号表現への記号内容の間断の無い滑り込みを説明していると見ることができる。一方、縦の点線は‘対応する部分’としてではなく、係留点として見なすべきだと主張している(points de caption −文字通り、覆いの布を家具に留めるボタン)。しかし、ラカンはこうも言っている。ソシュールのモデルは余りに直線的すぎる、というのは‘その単位のそれぞれの区切りに貼り付いているように、その点からあたかも‘垂直に’に吊り下げられている関連した文脈の全体の分節を持たない意味する環がないからである’((同上, 154))。ソシュールのモデルに関するラカン流の批判という点では、ラカンの後継者は記号表現と記号内容の仮の結びつきを強調している。また‘記号表現の連鎖’の‘固定化’は社会的に位置付けられていることも強調されている ((Coward & Ellis 1977, 6, 13, 17, 67))。記号表現を記号内容の上に位置付けるラカンの意図は明白であるが、彼の説明上の戦略は多少、奇妙に見えることにも注意しよう。というのは社会のモデル化において、オーソドックスなマルクス主義者は‘[技術 − 経済]に基づく’基本的な駆動力を(論理的に)‘[イデオロギー的な]超構造’の下位にあるとして説明するからである。
パースは三つ組みの構造に魅力を感じて、記号それ自身[または代表項]、その対象、解釈項をそれぞれ‘第一次性’、‘第二次性’、‘第三次性’の実体という現象学的な区別を行った。このような耳慣れない用語もパースの造語の中では比較的おとなしい例であり、彼の複雑な用語と文体は、パース独自の記号論の影響力を制限している。
記号学者が、記号と‘記号負荷体’(ソシュール流では‘記号表現’、パース流にいえば‘代表項’が対応する)を区別していることに,注意する必要がある。記号は記号負荷体以上のものである。‘記号’という用語はずさんに使われており、この区別がいつも守られているわけでない。ソシュールの枠組みでは‘記号’に関する言及は記号表現に関してのものとされるべきであり、同様にパース自身は厳密さが必要なときは代表項と言っていた。そのような混同は、記号がとる形式の‘向こう側’を見てしまう傾向があることによるものだと考えられる。しかし、もう一度繰り返しておきたい:記号表現や代表項は、(言葉の話された形式や書かれた形式のように)記号が顕現する形式であり、一方、記号は意味に富む総体である。
ここでの三つの形式は、慣習の度合いが減少するような順序で並べてある。言語のような象徴記号は(少なくとも)高度に慣習的である;類像記号は常に、ある程度、慣習を含んでいる;指標記号は‘強制的に’注意を対象に向ける (Peirce 1931-58, 2.306)。指標記号と類像記号の記号表現は、指示された記号内容により制約されていると見ることができ、もっと慣習的な象徴記号では、記号内容はかなりの範囲まで記号表現により決定されてしまうと見ることができる。それぞれの形式のうちでも、慣習の度合いは変わってくる。他の判定基準も、三つの形式を別の方法でランク付けするのに適用できるかもしれない。例えば、Hodge と Kress は、指標性は判断や推論作用に基づいており、類像性は類像記号という最も高度な‘様相’を作る‘直接的な認識’に近いことを示唆している。‘有契性’(ソシュールから)と‘制約’という用語は、記号内容が記号表現を決定する範囲を記述するために使われることに注意しよう。記号表現が記号内容に制約されるほど、記号はより‘有契的’になる:類像記号は高度に有契的である;象徴記号は有契的でない。記号の有契性が低いほど、共用されている慣習の学習が必要とされる。それでも大部分の記号学者は、記号に関連した慣習の役割を強調する。後で見るように、写真や映画でさえ‘読む’ことを習得しなければならない慣習を前提として作られている。そのような慣習が、重要な社会的な記号の次元である。
記号学者は一般に、‘純粋な’類像記号はなく、文化的慣習の要素が含まれているという立場を採る。パースは、‘(絵画のような)物質的な画像’は、それが表現しているものに似ている外観をしていると認識されるかもしれないが、‘表現の様態という点では大いに慣習的である’と述べている (Peirce 1931-58, 2.276)。‘会ったことのない人でも、その肖像画は説得力があると言う。その中で見たことに基づいて、その中で表現されている人についての観念を形づくる。その限りでは、それは類像記号である。しかし、実際にはそれは純粋な類像記号ではない。というのは、それは画家を通した、元の外見から生じた作用(effect)だと知ることによって、大きく影響されるからである...。一方、肖像画は、ある慣習的な観点以外ではまた慣習的な価値判断の後では、元の人にわずかしか似ていないことを知る’ (同上, 2.92) 。
Guy Cookは、男性用公衆トイレのドアの類像記号は、本当に女性より男性に似ているのだろうかと疑問を呈している。‘記号が真に類像的であるためには、前にそれを見たことのない人にとっても明瞭なものでなければならない − そしてこれは考えられているほどありそうにないように思われる。類似点を見るのは、既に意味を知っている場合である’(Cook 1992, 70)。このように、‘写実的な’イメージでさえ、類像的であり象徴的である。
記号を、‘記号の型’としてのパースの三つの様式に当てはめがちであるが、それらは互いに排他的でない:記号は、類像記号でも象徴記号でも指標記号またはその組み合わせでもあり得る。パースは、充分それに気付いていた:例えば、彼は次のように主張していた。‘まったく純粋な指標記号を実現することも、指示的性質を全く欠いた記号を見出すことは不可能ではないとしても難しい’ (Peirce 1931-58, 2.306)。地図は、事物の位置を示すという点では指標的であり、目印間の距離と方向を示すという点では類像的であり、その意味を学習しなければならない慣習的なシンボルを用いている点では象徴的である。映画研究者であるPeter Wollenは、次のように論じている。‘記号に関するパースの分析の大きな利点は、記号の異なる局面を互いに排他的と見ていない点である。ソシュールと違って、彼はあることやその他のことをえこひいきする偏見を示さなかった。彼は、記号の三つの局面に基づく論理学と修辞学を望んだのである’(Wollen 1969, 141)。映画とテレビはこの三つの様式をすべて利用している:類像記号(音と映像)、象徴記号(話と文章)、そして指標記号(撮影されたものの作用);最初は類像的記号が支配的なように思える、しかし、例えば、回想場面がそれに続くことを意味する‘溶暗(画面をぼかして次の場面を重ねる)’のように、映画の記号はかなり恣意的である。
Hawksは、ヤコブソンに続いて次のように言っている。記号の三つの様態は、‘必然的にそれらの一つが、他のものに対して優位を保つという階層的形式で共存する’。そして、その優位性は文脈によって決定される(Hawkes 1977, 129)。記号が象徴的であるか、類像的であるか、指標的であるのか、は主に記号が使用される方法に依存する。そのため、教科書で記号の各種の様態を説明するため選ばれた例は、誤った方向に読者を導きやすい。同じ記号表現がある文脈では類像的に使われ、もう一つの文脈では象徴的に使われるかもしれない:ある婦人の写真は、‘女の人’という広い分野を代表するかも知れないし、撮影された特定の女性を表現したものかもしれない。記号は、ある特定の文脈での使用者の目的を考えないと、三つの様態の言葉で分類できない。その結果、記号はある人にとっては象徴的、もう一人の人にとっては類像的、第三の人物にとっては指標的に扱われるかも知れない。Kent Graysonが説明したように、‘我々は類像記号、指標記号または象徴記号について語るとき、記号それ自体の客観的な性質は考えないで、視聴者の記号に関する経験に留意する’(Grayson 1998, 35)。記号は時間とともに、その様態を変化していく。Jonathan Cullerが述べているように‘ある意味ではロールス−ロイスはそれを購入するためにはその人が金持ちでなければならないという意味で、富の指標記号であった、しかし、それが使われるにつれ、富の慣習的記号に変わってしまった’ (Culler 1975, 17)。
デジタル記号とアナログ記号の区分も時々、検討される。Anthony Wildenは‘人間の生活や思想において、連続と非連続が最も原則的な2つの範疇であり2種類の経験である’と言っている(Wilden 1987, 222)。我々は、時間は連続体として経験するが、それをアナログまたはデジタル形式で表現できる。(時間、分、秒の針を持った)アナログ表示の時計は、時間をお菓子のように切り分けることができるという利点をもつ(たとえば、それにより授業中、あとどのくらいの時間が残されているか‘見る’ことができる)。(現在時刻を数字で表示する)デジタル表示の時計は、正確さという長所をもつ。それにより、‘いま’何時かを正確に知ることができる。ある時計(日本では殆どの時計)では、アナログ表示でさえデジタル時計の上で模擬されている。
我々は、アナログ様式に深く馴染んでいるので、デジタル表現を‘実物ではない’また‘本物ではない’と見る傾向がある −少なくとも、最初の段階では(例えば、オーディオのレコードLPとCDの場合のように)。 アナログ/デジタルの区分は、しばしば‘自然のもの’対‘人工的なもの’に例えられる。多分、部分的であるが、これは無意識 −我々の中のもっと深い部分と考えている− が相似的に作用しているのではないかという考えと結び付く(Wilden 1987, 224)。アナログ的なものが優先されるというのは、ロ−マン主義主義思想における無意識が占める位置と合理性の挑戦(それは未だに、我々自身は‘個人’であるという概念を支配している)ということに関連付けられるかもしれない。 デジタル・コードではコミュニケーションするという計画的な意図が主体であり、アナログ・コードでは‘コミュニケーションしないなんて、およそ不可能である’(ibid., 225)。 意識的な意図の他に、我々は、身振り、表情、声の抑揚等々で、コミュニケーションする。アナログ・コードは、止むを得ず、そのようなものを我々の気分、姿勢、意志や誠実性(または他のもの)を表す‘方法を付与する’ 。しかし、1971年にデジタル時計が現れ、それに引き続いてのオーディオやビデオ録画での‘デジタル革命’がエレクトロニクス技術のデジタル・モードに我々を巻き込んだかもしれないが、デジタル・コードは言語の初期の形態から存在していた −書くことは、‘デジタル・技術’である。表現するシステムは、我々がしばしば動的で切れ目のない流れととして経験することに、デジタル的な順序を強制する。あるものを記号として定義すること自体が、連続体を離散体に変えることを含んでいる。 後で見るように、2項分割あれまたはこれは、意味構造を生成する基礎的な過程である。デジタル記号は、言葉や‘整数’ のような離散的単位を包含し、意味されるものの分類分けに依存する。
イタリアの記号学者ウンベルト・エーコは、何人かの研究者が‘恣意的’、‘慣習的’と‘デジタル的’を明確に等しく置いていること、を非難している。彼は、次のような広く行き渡った組み合わせ表が、縦に並んだ用語はここでは同義語であると誤って示唆する、やり方に注目している(Eco 1976, 190)。例えば彼は、写真は‘有契的であり’、‘デジタル的’であると見ている。(社会的また文化的な慣習に依存する)‘慣習性’は(記号表現と記号内容の本質的な結びつきを欠いた)‘恣意性’と等価ではない。そのような用語を等しく取り扱うのはたやすいが、この教科書はこれとは異なる立場をとる。後で触れるが、我々がたびたび(多分、不可避的に)知らないうちにだまされている相似性(analogy)という見方の方を好む。
記号論的視点からは、次のようなことによってのみ、そのような疑問に回答できる。特定の何かを意味する行為という文脈で、異なる形式が、関係する記号使用者にとって重要ななにかを意味しているかどうかを考慮する。
エーコは、3種類の記号負荷体を列挙している。その区分は、部分的に材料の種類に関係することは注目される:
‘同じタイプの、単数または複数のトークン(複製)がある記号’(例えば、印刷された単語、または同じ色の全く同じモデルの自動車);
‘そのトークンがあるタイプから製造されたとしても、材質的には独自性を持った記号’(例えば、ある人が話したまたは手書きされた言葉);
‘そのトークンがそのタイプである、またはタイプとトークンが同一の記号’(例えば、唯一の原画である油絵またはダイアナ王女の結婚衣裳)。
記号のタイプ−トークンの区分は、社会記号論の用語としては記号負荷体の絶対的属性としてではなく、その記号を使うことに巻き込まれた人々にとって、与えられた状況で(特定の目的のために)重大なものである場合にかぎり重要となる。おなじ包みのトランプカードの、裏のパターンに生じた少しの違いもギャンブラーにとって生死の問題となる。しかし、コレクターにとっては、(スペードのエースのような)各タイプのデザインのスタイル上の差が、トランプカードが異なる組のものであるかどうかを見分けるものとしてとして問題となる。
これは言語学者のソシュールだけでなく、哲学者パースの姿勢でもある:‘"man"という言葉は...インクの三つのにじみから成っているのではない。もし、"man"と言う言葉が、数万部印刷される本の中に数百回使われたとしても、数百万にもなる三つ組のインクのかけらはたった一つの同じ言葉の化身なのである...おのおの化身は象徴記号の複製となる。これは、言葉はものではないことを示している’((Peirce 1931-58, 4.447))。パースは、記号の物質性にも触れている:‘記号は表象されるものと同一でなくある観点からはそのものとは異なるので、それは自分自身の中に物質に属するある特性を明瞭に持たねばならない...。これを記号の物質的性質と呼ぶ。’彼は、物質性は記号の属性であり、‘認知理論においては非常に重要である’ことを認めていた。物質性は、‘その表象機能を果たさない’また彼の類別の体系には現れてこない。しかし、物質性の表象能力に簡単に言及している:‘ある性質をもつ物を全て取り上げ、それらを他の系列の物と互いに物理的に接続すれば、記号とよべるものになるだろう’。例えば、ある人にとって赤い花の色が関心事であれば、赤みが記号となる(同上, 5.287))。
ソシュールは、言語は‘形式であって実質ではない’と主張したが、イェルムスレウの枠組みは、テクストをいろいろな次元から解析することとそれぞれに意味作用の可能性を認めることを可能とする。そのような基盤は、テクストの系統的な分析のための有効な枠組みを提供し、何が記号を構成しているかに関する考えを広げそして記号の物質性はそれ自身で意味することを気付かせる。

 

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