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定義とは?/ セントラルファイナンス

[ 546] 「オタク」の定義について
[引用サイト]  http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/otaku.html

私が現役の「アニメファン」だった頃には、まだ「オタク(おたく)」という言葉は存在しなかった。いつ頃の話かというと、『宇宙戦艦ヤマト』のブームから『機動戦士ガンダム』(第一シリーズ)の大ヒット後しばらくのいわゆる「第一次アニメブーム」の頃である。
私はこうしたブームを高校生前後の時期に体験した昭和37年(1962年)生まれで、同年には「オタク」という言葉を悪印象とともに一気に世間に広めた「連続幼女殺害事件」の宮崎勤がおり、また教団施設に設置した独自の空気清浄機を(『宇宙戦艦ヤマト』の「コスモクリーナーD」由来する)「コスモクリーナー」と名づけるなど、世間にその「オタク」ぶりを印象づけて「おたく宗教」((C)
上祐丈浩などがいる。私を含むこの世代は、いわゆる『宇宙戦艦ヤマト』ブームに乗っかって「アニメファン」になった年代であり、『宇宙戦艦ヤマト』ブーム自体を作ったのは、私たちよりも二、三歳年上の『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明などの世代であった。
「オタク」という言葉の語源は、コアなアニメファンの集う巨大イベント「コミケット(コミックマーケット)」などの同人誌即売会において、初対面
の参加者同士の呼びかけの一人称が「おたく」だったことから、いつのまにかコアなアニメファンを差す言葉として発展したものだという説がある。「おたくは富野派ですか、それとも長浜派?」といった感じで使われたのが原点だという説である。だが、もちろんこれは確認のしようがないことだから、後づけの「通
ともあれ、今は「アニメ」だけではなく「マンガ」オタク、「パソコン」オタク、「映画」オタク、「フィギュア」オタクなどと、以前なら「マニア」という言葉を当てていたところに「オタク」が代入されるようになり、「マニア」という言葉はめっきり見かけなくなってしまった。
しかし、「マニア」と「オタク」がまったく同じ意味かというと、決してそんなことはない。一見、非常に近いものに見えるのは事実だが、質的な違いがあるのもまた確かなことである。だが、その一方「マニア」と「オタク」の違いを、「マニア」でも「オタク」でもない「一般
の人」たちが理解しているかというと、もちろんそのような理解など皆無に等しい。言うまでもなく、「マニア」と「オタク」の違いに敏感なのは、「一般
私はそうした当事者の一人として、自分の経験と実感に照らして、以下に「オタク」という言葉の「定義」を試みたいと思う。もちろん「オタク」という言葉に「絶対的な定義」などなく、それはいつでも「個人的な定義」でしかない。だが無論、並立するそうした多くの定義が「同価値」というわけではなく、「良くできた定義(実態に則した客観的な定義)」もあれば「不出来な定義(実態に則さない独断的な定義)」もある。私が目指すのは、もちろん前者であり、オーソドックスな「オタク」の定義であって、独自性を売り物にする気はさらさらないので、そのつもりで読んでいただければ幸いである。
私はその昔(小学生の頃)、「プラモ」ファンであった。専門誌である『ホビージャパン』や『モデルアート』、あるいはプラモメーカーのPR誌である『タミヤニュース』を購読するところまでいっていたけれど、「プラモ」マニアであったことはないし、もちろん「プラモ」オタクであったこともない。その後、私は「アニメ」ファンとなり、やがて「アニメ」マニアとなったが、ここでももちろん「アニメ」オタクにはなれなかった。だが、それから約20年の歳月を経た現在の私は、ある意味では「本」オタクであり「フィギュア」オタクであり、そして「アニメ」オタクですらあるかも知れない。
「アニメ」への情熱は、高校生の頃とは比べ物にならず、現在放映中のテレビアニメに関する情報も、ごく断片的なものでしかなかったとしても、カラオケに行けばアニメシングを歌いまくる今の私は、「一般
かつての私は、自分が熱心な「プラモ好き」だから、自らを「プラモファン」と呼んだ。周囲に「プラモファン」などいなかったから、人が私をそう呼ぶようなことはなく、私は自己規定のひとつとして、内心で自分を「プラモファン」と呼んだのである。したがって、当時の私に馴染みのなかった「マニア」という言葉で自身を規定することは、原理的にありえなかった。私は自分を「ファン」という言葉で呼ぶしかなかったし、それで充分であった。
しかし、「アニメ」が好きになった頃には、「マニア」という言葉は、すでに私のボキャブラリーの内に入っていた。だが、単なる『宇宙戦艦ヤマト』ファンが「アニメマニア」を名乗るのは「おこがましい」という感じがしたので、当初は「アニメ好き」という意味で「アニメファン」と名乗っていたのである。やがて漫画部に入って同好の士と出会い、専門誌を購読する中で、私の「アニメ」に関する専門知識は増大し、もはや「アニメファン」という無条件的な名称にはそぐわなくなってきたと感じられた時、私は「アニメマニア」を名乗るようになっていた。また、その後、私は「ミステリ(推理小説)ファン」になり「ミステリマニア」になったのだが、すでにこの頃には、「マニア」という存在につきまとう、独特の「濃さ」「暑苦しさ」を感じ、そこに鼻持ちならない一種の「権威主義」を見るようになっていた。だから私は、自分がまさにその範疇に望んで入ったという自覚は持っていたものの、「マニア」の一人として内在的な「(ミステリ)マニア批判」を展開することになったのである。
「ファン」とは、その対象が、特に「好き」だという感情をもっている者のことを言う。したがって、好きであれば、それに関する「情報量
」は問題にはならない(つまり「主観」優先主義)。ただただ好きで、部屋にそのポスターを貼っているとか、関連商品を買い漁るとかといった程度で充分でなのある。わかりやすい例としては、タレントやアイドルの「ファン」をイメージしていただければ良い。
「マニア」とは、その対象が、特に「好き」だという感情をもっているのは当然(最低条件)として、その対象に関する「あらゆる知識・情報」を得ようとする者を言う。その意味では、「マニア」は単なる「観念的崇拝者」ではなく、「コレクター」的性格が色濃い。また、そうした「独占欲」の表れとして、彼らは単に「好き」なのではなく、「しかじかの理由」により「好き」なのだという、いわゆる「一家言」を持っている。つまり、彼らは単なる「崇拝者」の一人に止まることを好しとせず、その対象についての、一種の「専門家(エキスパート)」であり「権威者」であらんとする傾向が顕著である。したがって、彼らには、しばしばその「対象」よりも「自己」を優先させる傾向が見られる。つまり「自己」を権威づける(アイデンティティを基盤を得る)ために、「対象」を利用するという傾向が見られるのである。そのため、賛同者の数が多いことを単純に喜ぶ「ファン」とは違い、「マニア」には「選民主義(エリート主義)」的傾向が強く、その「対象」が「メジャー」であるよりは「マイナー」な、いわゆる「マニア受け」する作品であることを望み、その「対象」がたまたまブームになったりすると、「堕落した」つまり「大衆化した」といった理由で、その「対象」から離れてしまうことも珍しくない。その意味では、古典的な「趣味人」の「貴族主義」の血をひいているとも言えよう。
さて、では問題の「オタク」はどうだろうか? 世間的には、上に定義した「ファン」も「マニア」もひとまとめに「オタク」と呼び習わされているが、では「オタク」とは単に「ファン」と「マニア」の総計を言うのであろうか? 私の実感では、ことはそんなに単純ではない。自称「オタク」である岡田斗司夫の「オタク学」を待つまでもなく、「オタク」には、「ファン」や「マニア」には無い独自性が、たしかに感じとれる。「オタク」に関する岡田の著書については寡聞にして未読なのだが、岡田が自身を「オタク」だと規定し、偏見的蔑視を受けがちな「オタク」の優位
性を積極的に評価したのに対し、私は「オタク」たりえない者の一人として、「オタク」というものを「ファン」と「マニア」との関係の中で、できれば客観的に定位
「私はオタクたりえない。私はファンでありたいが、ファンには止まりえない。私はマニアに傾きがちであるが、マニアに嫌悪感を覚える傾向が強く、マニアにもなりきれない。しかし、もちろん私は、一般
の人ではない。だが、そんな私は、一般の人から見れば、オタクでもマニアでもファンでもありえるだろう。ファンから見れば、私はマニアだろうし、マニアやオタクから見れば、私は同類か、そこには及ばないファンということになるだろう」……これが私の立ち位
点である。だが、そうして得た知識をひけらかす際、「マニア」には「どうだ俺は凄いだろう」と言わんばかりの鼻持ちならない「自慢」がつきまとうのに対し、「オタク」のひけらかしは、どこか「無邪気」に感じられる。「マニア」のひけらかしは、そのことによって自身を権威づけようという「功利」性がつきまとうのだが、「オタク」のそれには、ひけらかす行為が崇拝対象への「愛情表現」と理解され、そのことそのものに「(一体感的)快感」を覚えているというふしが強い。つまり「オタク」は、その行動においては「マニア」に酷似するものの、その心象においてはむしろ「ファン」に近い「無邪気」さを持っている。だが、これは何を意味するのか?
の人」の理解を越えており、それゆえ時に「怖れ」を抱かせ、「無気味」という感情すら抱かせる。その意味で「マニア」や「オタク」は、「カルト」という言葉に親近的なものとして理解されている。また、それは「マニア」や「オタク」の持つ「無気味」さは、宗教的盲信者や精神異常者や犯罪者に近いものとしてイメージされがちであり、宮崎勤や上祐丈浩の存在も、所詮はそうした一般
だが「一般の人」の目からは同じように見える「マニア」と「オタク」も、それぞれの自覚としては大いに違っているように思われる。つまり、「マニア」には「ファン」的な「無邪気」さはなく、「権威化」を望むという特性において、彼らは十二分に「社会的」な存在なのである。彼らは「他人の目」を強く意識し「評価されることを望む」存在であり、その意味で彼らは、その「選民」志向に反して社会的な評価に依存するという本質的な「凡庸さ」を持っているとも言えるのである。それに対し「オタク」は「ファン」的に「無邪気」であり、「他人の目」や「社会的な評価」には「無頓着」である。「純粋」だと言えば純粋だが、「反社会的」とまではいかなくとも「非社会的」な傾向が強いとは言えよう。「オタク」は、「マニア」の持つ「腰砕け」な見苦しさを持たない反面
、「思想犯」のごとき「純粋さ」において「危険」であるとも言える。彼らは、興味のない「慣習」や伝統的な「社会的価値」などを顧慮することはない。そうした大胆さ(無神経さ・傲慢さ)において「オタク」は「内向きの革命家」であり、「マニア」とは「外向きの伝統主義者」でしかない。だが、この歴然たる「違い」をして、直ちに「どちらが正しい」とか「どちらに価値がある」などと断ずることはできない。その「違い」は「性格」として一長一短であり、それが置かれた状況によってプラスに作用することもあれば、マイナスに作用することもあるからである。
書き手は『チョコエッグ』の「おまけフィギュア」の造形などで、いちやく世間の注目を集めた造形集団「海洋堂」の、自身も「造形オタク」を自称する宮脇修一。
という具合なので、みなさん、ウチのやり方に驚かれます。たいていはもっとのんびりしておられるので、いろいろ理由をつけて返事に三日も四日も待たされます。世の中のふつうの会社はそうなのでしょう。つい最近も、頼まれた企画を送ったにもかかわらず、クライアントからなかなか回答が戻ってきません。
俗にいう大人社会の仕組みですね。けれども、ぼくらは作らせてくだされば満足するお子さま集団。銀座や新地の接待は要りません。儀礼的な挨拶も要りません。大人の付き合いを優先させる商売ではないのです。』
『庵野(秀明)には「アニメ的なもの」への躊躇が一切ない。おそらくそれは世代的差異でもあろう。四一年生まれの宮崎(駿)や五一年生まれの押井(守)がもっていたアニメ的=オタク的想像力への警戒感、あるいは文学的想像力への憧憬を、六〇年生まれの庵野はいささかも持ち合わせていない。庵野の履歴を見ると、彼が八〇年代、オタク文化の最も「濃い」現場を歩んできたことが分かる。彼はアニメというジャンルの不毛さにずっと付き合ってきた。『エヴァンゲリオン』ではその愚鈍さが有利に働いている。(中略)つまり庵野はそこ(『エヴァンゲリオン』)で、ここ十数年一貫して不毛だったアニメ的想像力を強力にリミックスし、そのことにより八〇年代の文学的想像力を突き抜けたとも言えるだろう。
前半のエピソードと『エヴァンゲリオン』の初期設定は、庵野がいかに物語作家として優秀(この語が適切だと思うが)かを十分に示している。(中略)しかしおそらくそれより重要なのは、庵野がこの作品を崩壊させたことのほうである。
後半、庵野は救済の物語、ハッピーエンドを突然放棄しはじめる。それはつまり、アニメ的物語の放棄ということだ(実際この時点で、『エヴァンゲリオン』はアニメファンの不況を急速に買い始める。彼らは登場人物が不幸になる話には耐えられない)。(中略)その延長線上に最終二話、つまり物語そのものの完全な放棄とメタフィクション化があったのは、したがって必然だった(中略)。
庵野自身の言葉によると、この態度変更は制作中に行われた。『エヴァンゲリオン』はアニメファンの間で熱狂的に受容された。その熱狂の自閉性に気づいた彼は、作品構想を変更せざるをえなくなったと言う。放映終了後、庵野はアニメ専門誌やラジオ・インタヴューでほとんど自虐的にアニメファン批判を繰り返すことになるのだが、そこでの彼は、実は宮崎や押井の履歴を見事に反復している。(中略)宮崎と押井において(いわば)排除の論理によって遂行されたそのアニメ批判は、庵野においては増殖と加速化の論理で行われている。『エヴァンゲリオン』後半は、アニメ的な表現
- 物語の可能性をぎりぎりまで展開すること――つまり徹底してアニメ的であることにより、既成のアニメへの批判であるような形式を取っている。簡単に言えば、庵野はそこで単に超高速な超複雑なアニメを作り、そのことで質的変化を到来させているわけだ。九〇年代の救済物語のために作られた諸々の設定は、急速に反転し、登場人物のコミュニケーションをずたずたに引き裂くために用いられる。そしてそれは、庵野にとって、(登場人物に感情移入することでしか作品を鑑賞できない)アニメファンとのコミュニケーションを切断することでもあった。』
「オタク」は自分の好きなもの以外には興味を示さない。その意味で彼らは『興味のない「慣習」や伝統的な「社会的価値」などを顧慮することはない。そうした大胆さ(無神経さ・傲慢さ)において「オタク」は「内向きの革命家」』でありえる。前者の「海洋堂」の例がその典型であり、庵野秀明によるアニメ『エヴァンゲリオン』の前半の成功も、そうした「オタク」の特性ゆえだと言えよう。だが、今だ幸福な「海洋堂」に比べ、庵野はその作家的想像力によって「その先」を見てしまった。
映画版の『エヴァンゲリオン』のラストは、「人類補完計画」が完了した後の世界で、アスカが「気持悪い」とつぶやいて(吐き捨てて)終ったと記憶するが、東浩紀が『動物化するポストモダン』で描き出した、「物語」すら放棄して「コード化された萌え要素」を消費するだけで満足するようになった(条件反射的
に複製された綾波レイが、いっせいに笑みをうかべる様子や、『ムーミン』の奇妙な群生生物「ニョロニョロ」が、まるで一体の動物であるかのようにざわめき動く様に似て、たしかに「気持悪い」。考えてみれば、庵野が「気持悪い」と感じて嫌悪した「オタク」の「自閉」性は、どこかそうした「非人間的な均一性」、私が私であること(個性)に固執する人間らしさを放棄したかのような、その無気味な「一体性」において、「補完後の一体化した人類」の「自己完結」性に似てはいないだろうか?
では私はそれぞれに違った反応を示すだろう。すなわち「ファン」「マニア」「オタク」というのは、「固定的な所属集団の名称」ではなく、「性格要素の名称」なのである。そして、そうした「性格要素の名称」の中で、最も新しく、最も重要な問題性を孕みながら、今後も強まっていくと予想されるのが「オタク」性なのであろう。
「ファン」や「マニア」と比較すれば、「オタク」の特性は見えやすい。「オタク」は、「ファン」のように「社会」が笑って容認する範囲に止まらず、それを逸脱して自分の好みに偏執し、なおかつ「マニア」のように「社会」に色目をつかう(というアリバイ工作の)必要すら感じなくなった、「最強の非社会的動物」である。だが、我々はそうした「イメージ」が、極限化され象徴化された「イメージ」であることを忘れてはならない。他人から見れば「典型的なオタク」である人物も、その内面
に一歩踏み込めば、かならず「凡庸な人間性」を抱え持っていることだろう。少なくとも、徹底した真の「オタク」(観念としてのオタク)は、自分が「オタク」か否かを問う必要など寸毫も感じないだろうし、「オタクの定義」になど興味は持たないだろう。「オタク」は、ある意味で「唯我独尊」なのである。
だから、この論文の読者は、善かれ悪しかれ『徹底した真の「オタク」(オタクの権化)』ではない、という事実は知っておいてもいい。「オタク」は他者にアプローチしてこない。共感であれ嫌悪であれ、肯定であれ批判であれ、それを「オタク」に示すのは、いつでも「非・オタク」的な要素の方なのである。

 

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