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[ 692] 極東ブログ: もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。
[引用サイト]  http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/06/post_efdf.html

ブログの運営のことでこれだけ悩んだのは久しぶり。いろいろ悩んだけどね。もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。ということにしました。
承認制というのは、コメントを書き込まれてもすぐには反映されないということです。私が判断して、これはないんじゃないかなというコメントはブログに反映しません。せっかく書いていただいたコメントも、私の承認がないかぎり、コメント欄に表示されないことになります。「死ね」と書かれたコメントは表示の承認をしません。みなさんからいただいたコメントを表示するかしないかは私が責任をもって決めます。
そして、もう一つ。ブログを持っているみなさんも、これから持とうとしているみなさんも、コメント欄を承認制にしたほうがいいですよ、とお勧めします。
「でも私の使っているブログじゃできません。はてなダイアリーにはそんな機能がないんです」という場合は、そんなブログを使うのはおやめなさい、とお勧めします。ただし、はてなダイアリーには、コメントは会員だけに限定する機能があるのでそれを使うとほぼ同じ機能になります(それでも捨てIDとかで爆裂する人はいますが)。そうした、各ブログシステムの詳細については各人がお考えください。
そう決心したのは、昨日のエントリ「極東ブログ: あなたのブログのイヤなヤツ」(参照)にも書きましたが、ブログに「死ね」と書かれたことで自殺に至った少女の死が私はとてもショックだったからです。
彼女に、今私が書いているこのエントリの趣旨、つまり、「ブログを持つならコメント欄は承認制にしなさい」ということを伝えることができていたなら、あるいは私がもっと早く決心していたなら、と悔やまれました。もちろんそれでその命が救われていたはずだと思い上がるわけではありませんが。
現実的には、私のこのちゃちなブログを彼女のようなかたがご覧になった可能性は低いでしょう。そもそもこの爺臭いブログを仮面ライダーキバのファン以外のかたがご覧になるとすれば、よほど物好きでしょう。でも、私はブログの物好きがいつか日本の社会を変えるだろうと、0・2%くらい信じています。そしてその連鎖がうまく彼女のようなかたに届いた可能性が0・002%くらいあったかもしれないなと思うと、マジ泣けました。
ブログに「死ね」と書かれたくらいで死ぬなよというのは、自分がティーンエージだった心を裏切る部分があります。まして私は50歳にもなってしまいました。社会的にはクズFAだけど、まあいい大人ですよ。もしかするとパソコン通信の黎明時代から四半世紀にわたってここの世界に関わってきた希少生物かもしれません。少しここいらで考えを変えるべきだし、このネットの世界に少し自分なりの立場を明らかにしたいと思いました。
少なくとも、コメント欄を承認制にすれば、「炎上」はなくなります。それで困るのはJ−CASTの炎上ネタ? いやもうそれも飽きられているじゃないですか。切込隊長さん十八番の炎上批評もなくなってしまう? あれももういいんじゃないの。
ブログは炎上しなくても、掲示板で炎上する? はてなブックマークでネガコメ炸裂、「死ねばいいのに」タグ満載になる? なるほど同じ事かもしれないし、黒木ルールでいう匿名禁止は掲示板システムでもやらなければいけないとか、そもそも全部実名しろオグリンGOGOGOみたいな意見もあるでしょう。けど。私は私ができるだけのことをしますし、実現可能なことをお勧めしたい。というだけです。
ちなみに、ブログのトラックバックはもうすでに死んでいます。いや承認制してあります。私がイスラエル問題を書くのに、巨乳情報やお勧めの金融商品、RSS検索羅列などのトラックバックを送られてもな、ですよ。
ついでに、ケツの穴が痒くなりそうなんで、たぶんこれっきりにしたいのだけど、ブログをやっている人や、始める人にお勧めをまとめておきます。ブログ・クソッタレ撲滅ルールの試案です。
3点目のお勧め「自分を受け入れてくれるコミュニティを持ちなさい」は、サットンのお勧めのアレンジです。ブログというのは、やってみるとわかるけど、奇妙に孤独な世界です。いやそんなことはないという人もいるかもしれないけど、少なくとも、ある一定以上の人気が出ると、それに比例して奇妙な孤独がやってきます。そんなこと言える? ええ、私がそうですよ。
ブログのない時代は、表現者であることは、同人誌や地下出版くらいでしか可能ではありませんでしたし、それらは、受け入れてくれるコミュニティも付随していました。だから内輪揉めとかもっと凄惨なこともあったけど、それはそれなりにコミュニティはあったものです。でも、ブログというのは、やってみるとわかるけど、奇妙にぞっとする孤独があるものですよ。それがなさそうな人もいるけどね。
自分が正しいと思って書いたことをみんなが嘲笑しているのではないか。そんな悪魔の囁きどおりに探すとなるほど嘲笑ばかりです。その嘲笑のほうが正しいのかもしれません。そんなときは、自分を受け入れてくれるコミュニティのなかで、どう?と聞いてみるべきでしょう。もっとも、そのコミュニティが全員イカレているかもしれません。でも、そこまではもうしかたないでしょ。
話が複雑になるけど、たぶん、自殺された女子高校生のかたは、そんな殺伐としたブログではなく、ブログ自体がコミュニティを志向するようなそんなブログだったのかもしれません。つまり、SNSに陰毛が生えたくらいの、覗くなよ、みたいな。つまり、ブログとは名ばかりで本質はSNSだったのかもしれません。SNSでも、「死ね」コメントはあるでしょう。そして晒しもあるでしょう。そこについては、私は、またわからないなと思います。
今回の事件については、いわゆるブログではなかったのかもしれませんし、私が息巻いて書いているようなブログ管理者の心得みたいなものの対象ではないのかもしれません。毎日新聞記事”女子高生自殺:ネットの「死ね」にショック、初欠席のすえ”(参照)より。
女子生徒が遺書で触れた書き込みについて、同じクラスの生徒が開設したブログだったとの情報もあるが、確認はできていない。同校は、自殺した女子生徒へのいじめや、いわゆる「学校裏サイト」などへの書き込みがあったかなどについても県警に協力を依頼して確認を進める。
北九州市の高校1年の女子生徒(16)が、「ホームページに『死ね』と書き込みされた」などとつづった遺書を残して自殺した問題で、福岡県警は1日までに遺書が指摘したとみられるホームページを特定し、「死ね」などほぼ指摘通りの内容の書き込みがあることを確認した。生徒が通っていた同市小倉北区の私立女子高校は、いじめの有無など事実関係を調べている。
県警などによると、問題のホームページは生徒の同級生らが日頃利用していたものとみられる。生徒は遺書の中で同級生1人の名前を挙げ、「ホームページに私のことを『死ね。葬式行ってやるよ』と書いた」などと記していた。いじめられていたと訴える記述もあったという。
この記事からは、ブログというより、いわゆる学校裏サイト、つまり匿名的な公開掲示板の問題ではないか、つまり「ブログ」というのは誤報だったのではないか、と判断するほうが妥当のように思われます。
でも、それはそれとして、問題の本質と、私が可能なことといえば、やはり、「もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ」というくらいだなということは、変わりません。私は決めました。ブログには価値がある。でもその価値を維持するには不便もある。
私塾のすすめ齋藤孝・梅田望夫 関連して、「私塾のすすめ ここから創造が生まれる(齋藤孝・梅田望夫)」(参照)で梅田さんはこうブログを勧めていらした。言葉との出会いということで。
そうそう、そういう言葉をブログなどで公開していくと、そこで、志向性を同じくする人との出会いが生まれると思うんですね。志向性を同じくする人と語り合うことの意味は大きい。でもそういう人が物理的な空間、会社の中とか、学校の中とかで見つかるというほうがおかしいというのが、先ほど言った、僕のある種の諦観です。そこでおかしいな、誰もまわりにいないなと思ったときに、対象空間をぐうっと広げるのに、インターネットというのはすごく役に立つ。
ネット上で、ほんとうにたくさんの事例をみているのだけれど、それほど目立っていないあるブログの例を挙げましょう。ページビューで言えば、一日せいぜい三百から五百くらいしかないブログなんだろうと想像するのだけれど、そのブログを毎日読み、コメント欄なので交流している人たちの雰囲気がとてもいいのです。
人間って案外、小さなことで幸せになれる。朝起きたときに、そのブログに、「この本を読んで感動した」と書いてあった。「じゃあ、私も買いにいってみよう」。それだけでずいぶん人生は潤う。
その先に、私は、この数日になってからの違和感を述べることにしたわけです(この本を読んだときは違和感はありませんでした)。
先ほども「炎上」の話をしましたが、そういうふうに幸せにしている、五人か十人がコアメンバーのブログ、ページビュー数百以下のブログで、炎上なんて起こらないですよ。そんなところにやってきて、そのコミュニティを壊そうなんていう人はいないし、オープンなんだけれど、そのブログの存在自体が、ふつうは見つからないから。でもオープンにしていなかったら、そのメンバーは出会えなかったわけです。
でも、私はそうしたコミュニティの最もナイーブなものが無残に壊されることはありうるなというのと、数百のページビューがいつか数千、数万のページビューになることはそう不思議ではないと思っています。まさか無名の私のブログが、そうなると思っていなかったのだし。
このあたりの問題は、ページビューとの相関で見てもいいのかもしれません。ただ、私は、もうちょっと、不便だけどコメント欄承認制へ踏み出しますし、それをお勧めします。
私は「死ね」とコメントいただいたらサクッと削除するでしょう。「おまえ馬鹿だろ」については、微妙ですが。それだけを黒木ルールでいう(参照)匿名さんが書いたならサクっと消してしまうと思います。きちんとブログを持っているかたが書かれたのなら、「ほぉ、お前さんと私がどっちか馬鹿か晒したるぜ」ってことにする可能性もあるかもしれません。「なんたらの部分だがお前馬鹿だろ、それはだな」みたいなコメントは承認すると思います。Nakajimaさん、お元気ですか。野ぐそさんのダラコメはOKするんじゃないかな。もう随分前になってしまったけど、切込隊長さんのブログが炎上したとき、炎上勢力がいろいろと切込隊長さんの支援と思われる人の切り崩しにかかったとき、野ぐそさんこと旧うんこさんは、むしろ弾に当たった。俺はね、ああいうふうにスジを通すヤツは大好きなんだぜ。
実際のところは、このブログについて言えば、すでにエントリ書いてもさしたるコメントもないので、ほとんど変化はないでしょう。それどこか、イージーミスとか誤訳の指摘を頂く敷居が高くなって、恥さらしの可能性が高くなりかえない。でも、そのくらいの恥はさらすしかないかな。いや、間違い指摘や反論は頂きたいと思ってます。ちょっと反応が遅くなるけど。
実は私もその程度の罵声にも耐えられますし、5年以上耐えてきましたた。まだ強くなれそうと思ったとき、違うよと思ったのですよ。
数千以上のPVを持ち、それなりに著名なブロガーは、他のまだ小さいブロガーなら威嚇を感じるようなクソッタレコメントにも許容を持ちます。数千以上のPVがあればクソッタレは自然発生しますし、それに許容性がなければやっていけません。
しかし、そうした大きなブロガーが、他のブロガーだったら威嚇を感じるようなコメント、単純には、「死ね」といったようなクソッタレコメントを放置しないでくださいということもあるのです。特に、大きなPVを持つブロガーはそのクソッタレコメントを結果的にまき散らすことも許容しているのです。それをやめましょう。
マッチョでなければブログれないのなんて私だって御免被る。ちょっとした設定で心身ともに楽になるなら、是非そうするべき。
別の言い方をすれば、弾さんにお勧めしたいのは、コメント欄承認制をとならないのなら、弾さんが「ブロガーとして許せないコメントは削除しますよ」とポリシー化していただくことなんです。
コメント欄承認制で、「炎上」は終わります。こういうものを過去のものにしていこうという提言は、このエントリーの趣旨であり、「みなさんも」と問い掛けた意味です。
この記事へのトラックバック一覧です: もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。:
極東ブログ:もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。 とりあえず、私のコメントは承認されて、表示されました。当該コメントとは、別の視点で、本エントリを考えてみましょう。 前半部分は、ブログ読者という書き手の外側の話。 少なくと... [続きを読む]
どういうわけか「悪意」というのはなくならない。 ・極東ブログ: もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。 悪意を持つことがどれだけ楽しいことなのか、どれだけ人生を豊かにするものなのか、ぼくは知らない。知らないけれど、なくならない以上、何かいいことがあるんだろう。だから、悪意をなくす努力なんかはしても無駄だろう。なくならないなら、それはあると思って対処するしかない。他人...... [続きを読む]
結果的にBLOGツールをバージョンアップしたタイミングでコメントの承認制を取り入れましたが、正解だったと思います。
匿名でネガティブなコメントを書き込む人は様々な理由や背景があるとは思いますが、BLOG主に対して優位な立場を利用している狡さがあると思います。
spam コメント対策コストを抑えたいので、当面の間、コメントを承認制にします。翁もそうしてるみたいだし、いいよね? おぢさんもうちかれたよ。
「極東ブログ: もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。」を読んで。 ブログにおけるコメント欄などの話。 ブログ・クソッタレ撲滅ルール 1. トラックバックは承認制にしなさい、ほとんどはゴミだから。 2. コメント欄は承認制にしなさい、... [続きを読む]
「ネガコメ」を批判することそれ自体が「ネガコメ」になっているという意味論的パラドクス。そこに付け入る隙が生まれます。 [続きを読む]
1 はてなアイデア - コメント承認制の導入。寄せられた個々のコメントの公開or非公開を選択できる設定を追加してほしい。その際、例えば{承認(済み)コメント数/投稿されたコメント数}が表示されてもよい。というはてなアイデアを提案してきました。 はてなアイデアとい... [続きを読む]
「仏様に感謝」「神に感謝」信仰を持つ人の感謝の頻度というのは多く、美しいものだと思う。 特にそれが苦境であり、逆境であり、もしくは凪であるときは。 そういった中にも有り難さや意味を見出す豊かな感性を与えられることが、 信仰を持つことのギフトかなあとも思う。 ... [続きを読む]
というかほとんど前から僕も言ってたし、僕の周りでも実施している人が多いことだけどね。 極東ブログ: もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。 ブログの運営のことでこれだけ悩んだのは久しぶり。いろいろ悩んだけどね。もうコメント欄を... [続きを読む]
私はあるときを境にして、コメント欄を見るのをまったくやめてしまいました。悪意に満ちたコメントがあふれかえっているので気分が悪くなるし、発言者が匿名だと読んでも得るものがないからです。ネット上に読みたいものはあふれかえっているのに対して、コメント欄のSN比はとても悪いです。だから、コメントするのもやめました。自分が読む価値ないと思っているようなものを書いてもむなしいので。(今回はネタがネタだけに例外。)
というわけでコメント欄承認制になってもまったく影響ないのですが、悪意のあるコメントで傷つくブロガーがいるなら、コメント欄自体をなしにするなり承認制にするなりしたらいいんじゃないでしょうか。
それじゃ駄目。狡兎死して良狗煮らるって言うじゃない。喧嘩両成敗とも言うじゃない。喩え小さくともコツコツだろうとも、今後末永く続けていくことを考えた場合、目先の非情は非情じゃないし目先の孤独は孤独じゃないんよ。そこ気付いてキチンと実践しなきゃ駄目よ。
>もう随分前になってしまったけど、切込隊長さんのブログが炎上したとき、炎上勢力がいろいろと切込隊長さんの支援と思われる人の切り崩しにかかったとき、野ぐそさんこと旧うんこさんは、むしろ弾に当たった。俺はね、ああいうふうにスジを通すヤツは大好きなんだぜ。
その代わり、炎上勢力?が消えた後になって緑のおっさんが非情に徹せず私を排除しなかったばっかりに、私がエンガチョ勢力?になったじゃない。まぁ、地金でもあるしわざとでもあるけど。他の面子が、そこまで割り切ってるとも限らんでしょうに。人間には、どーやったって欲ってもんが付いて回るんよ。それが人の性なんよ。そこを甘く見ちゃ駄目なんよ。
じゃあ、そういうの?キチンと?分かってる人?が他に出るよう?頑張る?のが弁当爺さんの余生の仕事だよね。だから、私がこれ以上ここに居座っても邪魔なんよ。私が中途半端に偉くなっても仕方ないんだ。
弁当翁は別に孤独じゃないんだから。ブログやって大きくなったから孤独とか言われた日にゃあ、雑誌でも新聞でもテレビでも、よりマスの現場でやってるヤツはどんだけ孤独なんだよって話じゃないか。医者でも何でも、死ぬまでに何万何十万と患者を診続ける立場の人はどんだけ孤独なんだよって話じゃないか。商売人なんか何百万何千万何億を相手にする事だってあるじゃない。政治家になったら何十億を相手にすることだってあるじゃない。そいつら皆孤独ですとか言い出した日にゃあ、世の中辛いだけでしょが。
そうじゃなくて。ブログをやるからマスの現場に居るから商売やるから政治をやるから、だからこそ私は孤独じゃ無いんだって意識を持とうよ。手前味噌になるけど、私はそーゆー意識を持ってるからこそ弾に当たれるんよ。そんで、そういう人間は、用?が済んだら捨てなきゃ駄目なんよ。
序でに言うなら、件の女子高生が何より可哀想?なのは、そーゆー類の意識を僅かながらでも持ってたか持とうとしたか、その矢先に潰されたから可哀想ってことでね。弁当翁はそーゆー生き様を見て心動かされる人なんだから、だったら(その志向の帰結?に居る)野ぐそは排除しなきゃ駄目です。
ネガティブコメントばかりのブログによって日本のネット環境(とくにCMS)は大きく出遅れてしまいました。
長く続けてきたブログが、世の中の速い流れの中で何年もそのままで良いわけは無いのですが、本当に心痛むこのような事件(16歳の死)は後を絶ちませんし、自分に何ができるのだろうかと考えた時に、私も同じような結論を出すと思います。
時節柄NGワードなのかもしれないけど、2004年6月1日におきた「佐世保小6女児同級生殺害事件」も同じようなホームページ上の掲示板の(実名の)書き込みに加害者が反応したことが機縁となっているように見えます。
こういう仮想空間上のメッセージは直接自分の核にまとわりついてくるので、「自分と気の会ういい人」と思ってリアルで会うと「なんだこれ」とひと目でわかることがあるのがおかしかったりする。「でも、あっちがほんとなんだ」と思い込んじゃったらアウトだけど。脳の作る幻想より自分の五感を信じなきゃ。
今回のように学校(推奨?)のHP上での同じコミュニティにいる人物からの(実名・匿名の)ネガコメントはそうとうつらかっただろうと思う。同じ境遇にいたら私でもまいっちゃったと思う。なんて残酷な学校(制度)なんだろう。
匿名の「かまってちゃん」や「僕はここにいるよ的クレーマー」は放置しとけば、自分の孤独の赴くところで現実世界に戻ることもあるのだろうし、その人の人生だから自分で決めろよでいい。finalventさんや他のアルファブロガーといわれる人たちのブログをみていてその応接の丁寧さにさすがだと何度も思っています。
私の場合は、コメントされてもおもてなしができないからごめんね、ということでコメント欄を閉じている。(単純に趣味でやっているから、そのための時間がとれない)
久々に出社した今北産業の平社員です。酒を飲んでるので、ほぼ読んでません。ブログは承認制でいいんじゃないですか。目指すところは違えど言ってることは理解できるブログというのは、反対意見でも真っ当なのはちゃんと載せている、と思えることがほとんどです。社民党や民主党議員系列は言論弾圧が本当に酷いですが、彼らは戦闘的譲歩強要主義者ですし話し合うだけ無駄というもの。
話題にあがってるその自殺した彼女は、苦しい時に心から相談する、信頼できる相手がいなかったんでしょう。自殺の原因はそれに尽きると思います。みくシーだろうがブログだろうが、現実世界だろうが、どんなに酷い目にあっても、どんなに弱い人間で世界を敵に回しても、たった一人でも信じられる人がいたのなら人は生きていけるものです。あなたが気にかけたところで、どうしようもない、自分のブログから被害者がでない、いや被害者にならないだけ十分だと思います。
>そしてその連鎖がうまく彼女のようなかたに届いた可能性が0・002%くらいあったかもしれないなと思うと、マジ泣けました。
しかし思い上がりもいい加減にした方がいいのでは。死にたいと思うような人間に必要なの、政治談議や駄文じゃない。自分の人生すら犠牲にしても助けたいと思うような、実体を伴った犠牲ですよ。何度彼女と話しても理解しあえなかった。だから一緒に死んでくれと言われたら死ねますか?無理でしょ。それができないなら悲しいとかいわないほうがいいです。余計なお世話というものです。
英断だと思います。正直、基準があった方が助かりますし…といって、先日も告白したように、内容がついてくるか、随うか、は微妙なわけですが…それも承認制であれば目処(めど)がつくようになるのかなと…手前勝手な考えで申し訳ないですが、コメントする側の率直なところとして思いました。
昨日レスしていただいた前回記事のコメントを見るに、僕はいみじくも貴方が貴方自身の有用性を証しているような印象を受けましたよ? それを「そのとおりだなぁ」とも感じました。おそらく(また勝手なことを書いてスイマセン)終風先生もそのように感じることがあったのではないでしょうか。勿論、元ハナ毛さんが持戒されるように、「全部が全部そうだ」なんてことはないでしょうが。
>記事書いてるときもゲームの攻略本手掛けたときも、なぜだか知らんけど「君の書いた記事はよく読まれる・悪評も多いけど評判も良い・重版掛かった」とはよく言われてたんで。その時分の方法論・感性のまま、時世の流れを無視して今佇んでるだけなんですけどね。
ここで取沙汰されているセンス、なかなか個性的だけど、貴方が普段「常識」と言われるようなものが(意識されて)底流する、それらが文章内で共存しているおかしみ(意外性)がコメントとして掲載されることで、承認のケース(多様性)になる。今後は手続きによって益々そうなっていく…
例えば貴方が以下に言われるように、ダラコメ、口汚かったり下品だったりすることは、本当は、倫理上は(決してとは言わないけど)さして問題じゃないんだということが伝わるケースもある。不都合を述べる気胆。ナルホド常識人の、生き抜く人の見るべき条件だと僕は思いましたよ。
>都合の良さそうな夢みたいなこと書いて後で現実が厳しくて「騙された」と思われるより、無駄に厳しそうなこと書いて実際やってみたらそれ程でもなくて「騙された」と思われた方が遥かにマシでしょ。
この、実は非常に難しいバランスをこなす貴方だからこそ、完全に退場するのは勿体ないと思うんだが、どうだろうか?
緑運動公園の方も、最近は昔よりループ率が高くなったんじゃないか? と思う…。そいて前から思っていたことなんだけど、貴方はなんだかんだいって節度ある人だから決して言わないことだが、貴方のような人を遊ばせることは、果たしてブログ主にとって“コスト”なんだろうか? と事此処にいたって僕は思うんだ。僕とかは腕がないからどうでもいいんだ。でも彼のような人は、どうなんでしょうね? 終風先生。「良識のある人たちによって生み出された温かい感情の和」に彼は貢献したんじゃないか?
今までは、仮にも「さん」というのに流石に「野ぐそ」はないだろうと思って「元ハナ毛さん」とさせてもらってたけどさ、
ここまでまた好き勝手してしまいました。掲載の如何は、終風先生にお任せします。長文乱筆、大変に失礼をいたしました。それでは。
HTML更新してFTPで転送するの面倒なので、日記を書いたりするスクリプトは必要ですが、コメントもトラックバックもないシンプルで負荷の低いシステムだと思います。
>特に、大きなPVを持つブロガーはそのクソッタレコメントを結果的にまき散らすことも許容しているのです。それをやめましょう。
アクセスが少々増えたらビビって休止する某ブロガーのようなのも「有り」だけども、その同じ某ブロガーが弁当氏を否定するのはナンセンスに感じ続けてる。
コメント承認制でブログ主の管理責任が一層増し、一切の責任を禁忌しようとすれば廃止という流れは結構早いのではないのでしょうか?
意思を持って及ばずながらも?努力する?という決断に及んだなら、先ず隗より始めよが大前提。そういう心構えが無いと、絶対次には逝けませんて。逝ってからのことは逝ってから考えれば宜しいし、逝く先何であるか見当が付くなら、ゆるゆる歩んでいつでも対応・後戻りできるようにしておけば良い。差し当たってどうやら私が(ここでの)隗っぽいから、じゃあ私を消しましょうってのは、意思を実践に移す前の重要な手続きだと思いますよ。好悪の情が、そこに勝っちゃ遺憾ですよ。
個人ブログ(参加人数5〜10人規模)と大規模運営ブログ(pv数千〜1万レベル)では、運営者の立ち居地は心構えだけでも変えといた方がいいと思いますよ。大規模運営ブログって、立場的に雑誌の人気コーナーが独立単行本化?したようなもんだと思います。嘗て数万〜十数万部発行の趣味雑誌の中で小間使いやってた経験上言うんですけど、そのへんの規模になってくると潜在的投稿数多いんですよ。1万部に対して100〜200通くらい帰ってくる。雑誌に備え付けのアンケート葉書きで寄越す人も居るし、わざわざ50円葉書き買ってイラスト描いてまで投稿してくる人も居る(割合的に100〜200人中30人くらい)。そういった類の人々の熱意って意外と脆弱で、悪意あるコメントに弱いんですわ。選者の立場としてでも、ちらっとキツイこと言ったら「ごめんなさい…」とか書いて次から寄越さなくなっちゃうことだって多い。私は方法論的に好きじゃないけど、良くも悪くも居心地良く自己主張出来る場ってのを作ってあげないと、投稿者の意欲なんて直ぐに萎えます。皆が皆そうだとは言いませんけど、概ねそういうもんだと思います。
それと、基本的に読みたがってる?何か返答・アクションを起こしたがってる?記事ってのは、良くも悪くも主張がハッキリしてますよ。弾戸外さんの記事がウケてるのも緑公園が泥まみれなのも、主因はそんなところだと思います。記事の品質が優良であることは重要な要素ではあるけど、必須じゃないんです。多少馬鹿でも構わんから、私はこう思う、私は何々すべきだと思う、今こうして頑張ってる…といった具合に自分を素直に吐き出す書き方をした方が、何故だか評判はいいんです。「その」上で、コメント子に優しい?場であることは大変に難しいことだと思いますけど、立場がある程度大きくなった以上そういった部分にも目を向けないと、折角の下支えが台無しになっちゃうんですよね。
その点ブログには「そもそも投稿料50円が不要」「投稿ボタンさえ押せばほぼ100発100中掲載される」という敷居の低さってもんがあるんですから、その時点で十分過ぎるほど恵まれていると思います。正直、そういった恵まれた環境?に対して甘えがあるんじゃないの? と思うこともありますね。私の場合は図々しい&勿体無い根性がダラコメに繋がってるひとり船場吉兆野郎なんであまり大きなことは言えませんけど。でもまぁ少なくとも、書いたことが(比較的)素直に反映されるだけでも、非常に有り難いことだと思いますよ。嘘?だと思うなら雑誌投稿をやってみればいいです。向こう1年2年、毎月100通送るとか決め打ちして、やってみればいい。ブログの有り難さってのが身に染みて分かると思いますよ。
そういった、多分?本来有り難い場を、ね。敷居の低さを逆利用した悪意あるコメントで埋め尽くすのは、こりゃ絶対双方の為にならんですよ。余りにも普及して半ば飽きられるほどになってるから誰も深く意識しないんでしょうけど、それまであった類似媒体で似たような真似をしようと思ったら物凄い労力(ほぼ大半は徒労)が掛かるわけですから。それがほぼ0まで軽減されてるだけでも十二分に有り難い事だって、先ず思いませんか? と。そんな感じですかね。
その上で、書きたいことがあるならナンボでも書けばいいじゃない?と思うわけですよ。私は。別に、何を書けばいいのか迷うことは無いでしょう。書きたいと思ったことや見て聞いて読んで感じたことを、自分の心に素直に書けばいい。先ず最初に有り難いの心があって、その上で誹謗中傷は出んでしょう。有り難いの気持ちがある人間が他者を傷つけるような発言はせんでしょう。そういう意味で、そこに「普通」の気持ちがある人間のやることに、そんなに間違ったことは無いでしょう。
私は、そう思うんですね。だから、書き「過ぎる」のは異常だけど、逆に書かなさ過ぎるのも、やっぱり異常ですよ。5〜10人規模で細々やってるなら兎も角、数千〜数万人規模でやってるところで「書かない」のは、マナー(笑)の逝き過ぎ。そう思います。書きましょうよ。書ける場があるし、主催者が「異常じゃなかったら書いていい」って言ってるんだから。そこを何でまた遠慮する必要があるの? としか思えないんですわ。
まぁ私は向こう1年消えるから当面関係ないけど、書けることの有り難さってのを、もちっと認識しましょうよ? とだけは言っておきたいですよ。勿体無いですよ。そんな感じ。
ちなみに、コメントを許可制にしても今回の自殺事件は防げないでしょう。承認をするときにゴミコメントを目にすることになるので。
ちなみに小生のブログは承認制ではありませんが、鎖国してます。jpドメイン以外は総蹴りです。まぁこれはスパム対策ですね。
ブログについてはそれぞれスタンスがあり、スタンダードを見出し難いものだとは思いますが、人の命が失われるような事態となっている現状に一つのスタンダードを提示されたこと、このたびの提案は大変意味のあることだと思います。
私はこういう提案をブログを提供するプロバイダーやネットを介してビジネスを行う企業が率先して行わなければならないのではないかと常々思っていましたが、影響力のあるブロガーが提案されたことで各社にもスタンダードを作ろうとする機運が高まればいいと思います。いい流れが生まれるよう願っています。
コメント欄を承認制にするべきかでそんなに悩むべきこととは私には思えません。あっさりやってしまいなさい。言論の自由なんかくそ食らえです。それより思想の自由のほうがよっぽど優先されるべきなんですよ。
「思想の自由」とは何かと言うと、私は常々、日本の社会教育はおかしいことが多すぎると思っています。その一つに「怒りは良くないことだ」と常に諭されることです。「怒りは良くない」とか「悪い結果を生む」とか
これこそ「思想の自由」です。我々に怒る権利を。死ねと書いた愚か者に対して怒りそして哀れむ権利を。理不尽なコメントに対して消す権利を。揶揄するコメントに対して遣り込める権利を。
但し、但しですよ。取り越し苦労だとは思いますが、某自称エコノミストのように、消す基準が恣意的にならないよう気をつけてくださいとも思いますが。
>差し当たってどうやら私が(ここでの)隗っぽいから、じゃあ私を消しましょうってのは、意思を実践に移す前の重要な手続きだと思いますよ。好悪の情が、そこに勝っちゃ遺憾ですよ。
そうですか…。ただ好悪、というわけでもなかったんですが、コレ以上は言いません。貴方は何処までも(貴方の言う)筋を通す人なんだな。
自分のブログのコメント欄を承認制にはしたくない人でも、コメント欄を「新しいウィンドウで見る」ようにするだけでも、ずいぶん効果があるような気がします。
いい加減頭イタイんですけど、「承認」って言葉が出たか出ないかくらいのことで、そこまでビビってガタガタ言うほどのことじゃ無いでしょうに。私のクソコメントですら「消すなら宜しくね?」とか何遍言っても消さないんだから。調子に乗って本文以上に爆書きしても消さないんよ? ここの人は。その程度に寛容性あるでしょうが。寛容性なんか初手から一遍も無い人が暴君宜しく「オラやるぜ!!」とか言ってるわけじゃ無いんだから、そんなピーピーキャーキャー言うことじゃ無いだろがっての。
「好悪の情が」って言ってるのは、弁当翁さんが私の行為を「大好きなんだぜ」と言ってる部分に掛けてるから、他意は無いかもね。あとねぇ。別にアレは緑のおっちゃん援けるためにやったんじゃなくて「緑のおっちゃん苛めるんだったら緑だけやってりゃいいんで他者を巻き込むんじゃねーよ」って意味合いで弾?ん中に飛び込んだ?だけだから。だから別に緑さんに優しい?とかどーとかは関係ないと思いますよ。それに最終的には緑のおっちゃん自力?で解決したんだし、私が居ようが居まいがやることは一緒だったんだから。弁当翁さんが買い被って下さるのは有り難いんだけど、そんな大したもんでもないでしょう、としか思わんす。別に私口出しした以上のことは何もやってないんだから。
それこそ「貴方は何処までも(貴方の言う)筋を通す人」なだけだと思いますよ。それがたまたま状況に応じて作用した(ように見える)だけなんじゃないですかね? 別の状況に応じれば、扱いにくい只の馬鹿でしかないんだから。むしろそっちが本質だろう系の。
最近拙宅に居付きまくって餌食い放題の野良猫(リングネーム・ねこ。黒系虎猫・推定年齢2〜3歳・出産前)が明らかに腹パンパン乳パンパンで私の膝の上に寝そべりまくってるんですけど、どーにかなりませんか。コイツ絶対俺んちで出産しちゃいますよ。もー俺んちは産婦獣科ですかっての。どいつもコイツもバンバン産みやがる。冗談じゃねぇぞって感じなんですけど。2匹出産予定です。かわゆい。
そんで近年チョコチョコ言ってたけど、苦節10年(笑)よーやく若干の小銭を蓄えられたんで、6月いっぱいで派遣の仕事辞めてどっか学校でも逝って資格取ろうかと思ってんですよね。学費とか自分で稼いで自分で払わないと気が済まない性質なんで意地んなってコツコツ頑張ってたんですけどね。ちょっと頑張り過ぎちゃったかなー?みたいな。なんで1000万円貯めたんだか理解できない。そこまでせんでもえーやろ系の。そんなことより年齢的に危険水域だろー系の。でもいいや系の。ちゃんと学校逝きたかったんだよね。
そんな感じで自分なりにコツコツ頑張りますわ。多分今月いっぱいは何だかんだで弁当屋に来ると思うんで、消えるのは来月くらいかも試練ですね。
そんで。そんな、許すとか許されるとか妙なこと考えんでも別にえーんじゃないのと思いますよ。自分なりに出来ることからコツコツやってりゃえーんじゃないですか系の。そーゆー意味での「普通さ」まで一々承認とか言うわけ無いじゃないですか系の。そんなもんだと思いますけどね。
ほなさいのら。ねこぽん。ねぽねぽ。ねぽマジうぜぇ〜。死ねよ邪魔くせぇ〜。馬鹿みたいに腹膨らませやがって何考えてんだ。えー加減にせんとぶっ殺すぞ〜。って感じ。
何がアウトかって、さ。そんなん普通に生きてて余程の馬鹿じゃなきゃ分かるだろ、としか言いようが無いのよ。余程のことが無い限り基準(笑)からはみ出ることなんか無いよ。言って良いことと悪いことの区別って、さ。そういうもんなんじゃないの? としか言いようが無いんですけど。
>もしもあなたが「ひとを救った」という達成感を得たとしたら、それは誰かを(あなたが)ハラスメントにかけたことの指標に過ぎない。…
他人の助けになる場合、忘れてはならないことは、被害者本人が自分の意思で決めていいことは、何事であれ自分の意思で決められるようにすることだ。
彼女たちは(自分の核に執拗にまとわりついてくる)空虚な質問に(自分の命をかけてまで)答える必要はなかったのだ。
「無視してもいいんだよ」「そんなのはこの世には無い人格が言っていることばなんだよ」と誰かが自分の行動を通して示してやるべきだったのだ。
しかしながら、承認制にすることにより、書き込む側は「ブログ主の考えに対立する意見はすべて排除されるのでは」という疑念を持ってしまいます。
世の中には実際に「対立する意見は一切不要、そんな奴は来なくていいよ」というブログがありますし、そういう所は早くから承認制にしてますよね。
一方、「対立する意見は真摯に受け止め、自分の間違っているところがあれば正す」という建設的なブログ主にとっては大きなマイナスになると思います。
本来なら自分の過ちを指摘してもらえたはずなのに、承認制にしていたがために書き手がコメントするのを躊躇してしまう、というのは充分起こりえます。
なんだか貴方を神様にしたがっているようですね。皆、氾濫する情報から自分にとっての真実を見つけることよりも貴方の信じる真理を信じることで正しくありたいのかも。考えることの放棄。先の粘着も、貴方が彼の信じる真理以外のものを信じていることが怖かった、それだけのことだった。貴方への甘えでしかない。ネガコメも、貴方の世界観に同化し過ぎた、もしくは自信の土俵が小さすぎるが故に自身の感覚を失い貴方の掌からでられなくなった人間が恐怖感から書かざるをえなかっただけなのでは?「俺だけじゃないだろ?なぁ?」と。
先の悲しい出来事も、甘えなのでしょうね。書き込んだやつは彼女の存在に甘えている。公開の場でおとしめることによって自身の空っぽさを癒そうとした。
貴方はたくさんの人に日常への稀有な視点を提供してくれる。歴史から隔絶された世代には貴方を繋として世界の深さを垣間見せてくれ、世界からの拒絶により純粋であらざるをえなくなった人生の孤独とそれでも世界は美しいと思える在り方を貫き通す為の戦友としてそこにあってくれる。皆、貴方を慕っている。そんな貴方だからこそ「承認制」には価値がある。「拒絶」という選択肢が残す世界不確定性
コメントが公開された後に消すなら,そういうコメントがあったという事実自体は誰かの目にとまる可能性があります。
これは,blogの管理者以外,そのコメントが本当に他の人に書かれたものなのか,それとも自作自演やマッチポンプなのかを判断する可能性自体を消してしまうことにはならないでしょうか。
コメントを消すのか,残すのかの判断はblogの管理人が持っていていいと思います。突き詰めればblogは私的メディアですから,乗せるも残すも個人の判断だと思います。
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