くださるとは?/ セントラルファイナンス
[ 685] 斎藤真実の「これみてくださる」
[引用サイト] http://yaplog.jp/mamiami/
発車のベルが鳴り、たくさんの人を乗せた新幹線が扉を閉めホームを去ろうとすると、去っていくその車両に向かって、それぞれにそれぞれの場所で手を振る人たちの姿があちこちに。 去っていく新幹線が見えなくなるまで見送り、それから踵を返して、1人また1人と、静かにホームを後にしていく。 勝手な想像だけれど、遠くの街に住む彼・彼女が、週末の休みを彼女・彼と一緒に過ごすためにやってきて、そして日曜日の夜、また遠くの街へと帰っていったのだろう。 だけど、遠くの街へと戻っていく大切な人を見送るという立場は一緒で、その寂しさも、少しずつ共有しあっているような感じ。 ぽつぽつとホームを去るその姿、その風景は、1人1人の切ない溜め息と涙、次に逢える日へのささやかな楽しみと希望とが入り混じったような風景で、まるで、ひとつの大きな集合体のように感じた。 見送り見送られるのは、その瞬間は時にたまらなく切なかったり寂しかったりするものだけれど、そうして誰かが誰かを思い見送る風景・見送られる風景というのは、その背後にある様々な心情や生活が垣間見えて、何とも言えない深い情緒に溢れているな、、、。 何かとセチガライ世の中、夜の闇に紛れ人知れずそっと身を隠し、、、という訳ではないですが(笑)、ちょいと旅に出ます。 ガソリンが益々高くなっている今日この頃ではありますが、布団に着がえ、スケッチブック、カメラ、とりあえずの食料・飲み物などをドカッと車に詰め込んで、ちょいと行ってきます。 そういえば今日は午後から晴れてきて、ゴンッと大きな塊の雲が、ゆっくりと高いところを渡っていきますね。 この言い回し、無意識のうちに全体でひとつの慣用句のように使ってしまっている言い回しだったので、全く気付きませんでした(笑)。 少し前に、県の方針転換の影響で県立美術館の敷地内のレストランスペースに入る店舗が無くなったという話を書きました。 それがなんと、ここ数カ月がらんとしていたその場所に、期間限定ではありますが、カフェがオープンするそうです! 福島県立美術館で開催される企画展、「フランス近代絵画の流れ」の会期に合わせて、福島市内のカフェが、期間限定ではありますが開店です。 火星は地球の隣の惑星ということで、他の惑星と比べたら一番の「ご近所さん」で、そこに人類が「時々友達を欲しがったりする」のは、自然といえば自然なのかもしれない。 ところで、比較的馴染みがあるからという影響はあるかもしれないけれど、夜空を眺めていて一番気になる惑星は、やっぱり火星だったりする。 それから惑星の中では最も派手な見え方をする金星の煌めきも、火星のあのじっとりとした独特の存在感を持つ赤には、かなわない。 私は占いなど普段全く気にしないタチなのだけれど、ある時ふと目にした星座占いか何かで、自分の星座を象徴する惑星が「火星」だということを知って、なんだか嬉しかった。 火星に象徴される星座だからどういう性質なのかとか、そういうことは全く覚えていないのだけれど(笑)、何と言っても夜空を見ていて一番気にかかる惑星だったから、ただ単純に、その火星とつながりがあることが嬉しかった。 少し前に、一人にしか聴くことができない音・「楽器」の話を書いたけれど、その「視覚版」とも言える「装置」。 いつもの絵の具だらけの制作スタイルで「開発」していますが、パリッとした白衣にでも着替えてやろうかなぁ(笑)。 当時、天皇杯の決勝戦か何か、日産(マリノスの前身)vs読売(ヴェルディの前身)の試合で、日産の木村和司選手がフリーキックでゴールを決めた、そのあまりの美しさに衝撃!!を受けたのがきっかけ。 「なんだこれはっ!!!?」と、その試合のテレビ中継に、まさに吸い込まれるように、美しいプレーに夢中になってしまった。 木村和司さんは、今は解説員などとして時折お目にかかることがあるけれど、その才能の豊かさから、後にJリーグが発足した時、「10年早過ぎたJリーガー」と言われていました。 サッカーはいつ点が入るか判らないし、なかなか点も決まらないから、、、。とあまりご覧にならない人もいらっしゃるかもしれませんが、だけどだけど、そのいつ来るかわからない、なかなか決まらないゴールが決まった瞬間、そこまでの流れというのは、ぞくぞくする程美しかったり感動したりするものです。 70、80歳になってもなお、仕事を持ち仕事を愛し、その仕事が人に世間に求められ、そしていつかその時が来たら、自分の決断で静かに「引退」の時を決める。 しみじみと、それまでの人生の悲喜こもごもが溶け込んだ息を、優しくゆっくり吐き出すように、ある方がそんな事をとつとつと話すシーンを見た。 実際そこまで辿り着いた時の心境とは、真実如何なるものかと、私などにはほんの少しだけ想像することしか、いや、想像すら、きっとできないものだろうと思うけれど。 私がもし無事70、80歳まで元気で年を重ね(もちろんそのつもりだけれど)、表現を続けているとして、その時になれば私なりに、「ああ、あの心境とはこういうものだったのかな、、」と、少しだけ共感し、共有できるかもしれない。 それを読んで私は、「あっ、ほんとだ!!」と、変なとこだけ妙に鋭いのび太君に感心してしまった記憶がある。 と教えてあげたいところだけれど、そういえば、今放送中のテレビの設定では学校は土日が休みになっているのだろうか?? ニューヨークの人にはロンドンの望遠鏡の向こうの景色がリアルタイムで見られ、反対に、ロンドンの人には、ニューヨークの望遠鏡の向こうの景色を、これまたリアルタイムで見ることができる。 地面から斜めにゆるやかに突き出している望遠鏡で、その先は本当に遥か彼方のロンドン・ニューヨークまで地中でつながっていて、その遥か長い長い距離を旅して、向こう側の風景が目の前にやってきてくれている、という、妙な感動が湧く。 こっちとあっちで、顔を見ながら携帯電話で話をしたり、ボードに何かメッセージを書いてコミュニケーションをとっている人もいたり、偶然その都市にそれぞれ居合わせた友人同士ばかりではなく、遥か彼方の国・街に住む全然知らない人たち同士が、この望遠鏡を通して、なんだかあったかい感動と驚きとを共有しながら繋がる。 向こうにいるのは全然知らない人のはずなのに、なんだか、とても深い縁を感じてしまうような、そんな感動。 仕掛けは、テレビ電話みたいなものなのだろうけれど(といってもその仕組みすら「?」ですが。笑)、夢とロマンに溢れてる!! 前にも少し書いた事がありますが、大の大人がよってたかって、時間も酒もタバコも風呂も忘れて夢中になり楽しんでしまう、からくり。 新作も含めて、職人さんそれぞれの個性に溢れた作品を、実際に仕掛けを解きながら遊びながら楽しみ、観ることができるようです。 まだ少し残っている灯油を使い果たしたいというのもあるのですが、それだけではなく、本当に寒くて、ついつい、アトリエでストーブをつけてしまいました! すっきりと晴れ渡り、カーテン越しにもいかにも陽が燦々と照っています!!これ以上無いくらい照ってます!!!というのがズンズンわかってしまうような気合いの入った天気の日とは違い、朝目覚めた時にぼんやりとした光しか入ってこず、しとしとと雨の気配が伝わってくると、ぬくぬくと布団にくるまって、猫と一緒にいつまでもゴロゴロゴロゴロとしていたくなってしまいます。 でも、一度起き上がってしまうと、なんだか不思議と雨の日ほど、部屋の片づけとか、掃除とか、普段しないような雑用をしたくなってしまうのですよ、これが。 普通、掃除・片づけ・雑用などは、すっきりと晴れた日にしたくなるという人が多いのかと思いますが、なぜか、私は雨が降った日にこそ、掃除とか片づけとか、はたまた部屋の模様替えとか、そういうことをしたくなってしまうのです。 ツバメが低く飛ぶと雨が降るという民間の天気予測がありますが、これ、個人的に見かける風景と照らし合わせると、ほんと当たります。 暴れるというか、いつもよりもそわそわと動きが変になるというか、落ち着きがなくなるというか、ジャレまくるというか、、。 人間も、気圧や天気の変化を敏感に感じてしまったりするのですから、ツバメやネコならなおさら、より強くその変化を感じてしまうんでしょうね。 さて、一昨日興奮して暴れまくっていたうちのおネコさん、もうしばらくは雨模様の日が続くようなので、天気予報の必要もなく、一日中寝ております、、、(笑)。 司馬遼太郎さんの、歴史上実在した人物の描写の仕方は、いつもいつもすぐ近くにその人がいるような気分にさせてくれます。 とてつもなく膨大な量の資料の検証と、現地に足を運ぶことでしか得られない感じられない、その土地土地の風土や空気の肌触りと。 今私の目の前には、竜馬さんや武市さん、桂さんなどが、そう遠くない過去の日本のそこここで、活き活きと動いているのが見えます。 「百聞は一見にしかず」とはいいますが、「一見」というか、現地に行ってその土地を体全体で感じることの大切さは、しみじみと思い知らされます。 普段の生活の中でもそんな小さな実感はありますが、例えば、ずっと行きたかった場所、写真や話だけで知っていた(厳密には『知って』はいないのですが。)場所に、初めて実際に足を運んだ時など、つくづく、そのことの重要さを思い知らされます。 鳥取から島根を中心に回ったのですが、中でも地味ながらずっしりと印象に残っているのは、何にもない、ただ海と浜が広がるだけの鳥取県は白兎海岸。 歴史や古事記のお好きな方は反応されたかもしれませんが、そう、「因幡の白ウサギ」の舞台になっている海岸です。 海岸近くにある白兎神社の案内によると、ここは、和邇(ワニ)族と白兎(ハクト)族の抗争の跡地だそうで、それがあの神話のもとになっています。 白ウサギ(白兎族の誰かでしょう)は、皮膚がはがれ海水で赤くただれた肌を、大国主命の言葉通り真水で洗いガマの穂で治したといわれていますが、その体を洗った池といわれるものが、白兎神社には残っていたりもします。 「ああ、この場所の空気はきっと、『神話』として残されている時代の頃から、あまり変わっていないんだろうな、、」と感じます。 日本海に向けて、きれいに明るく開けた、空も海も広い海岸ですが、そこには、光と影の両方が色濃く存在している「裏日本」特有の空気が漂っていて、ワニ(サメ)に服をはぎ取られ皮の剥けた白ウサギがそこにいそうで、そして大国主命が今にもその海岸を歩いてきそうでした。 マナーや山への礼儀だけは、山菜採りに山に入る皆さんにきちんとしてほしい限りですが、その上で楽しませてもらえるのなら、春の味覚、最高です。 |
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