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[ 26] tukinohaの絶対ブログ領域
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/

そんな冗談はさておき、蓮治と千尋は幸せになってほしいなぁと心から思いました。泣けるとか笑えるとか、そういうレベルの話ではなく、「心が震える」という経験は久しぶり。クリアしたら長文の記事を書く予定ですが、本当、みんなやってみたら良いと思うよ……。
以前、掲示板で同作を褒めちぎりながら「キモオタは『人生』(笑)でも観てなさい」というヤマカン名義の書き込みを見ましたが、あれはやっぱり本人だったのか……。
2008/06/06 10:10 (たまには、内容に関係あるコメントも)ヤマカン、ログ流れてて読めませんでした。独角・大炎上ー。>>人間って、自分がどうやってものを考えているのか意識できないじゃないですか。デカルトの唯我論でしたっけ? その中にこんなくだりがありますよね。「〜略〜数式の類は、悪魔の類が結果をこっそり入れ替えているかもしれないから信頼できない。〜略〜よって、唯一信頼できるのは、自分の自我は存在すると思っている自我が今存在する事だけである。」GOFAIと言うのはご存知でしょうか?GOOD OLD FASHION ARTIFICIAL INTELIGENCEの略、訳して「古きよき人工知能」(を作れると思っていた思い違い)、コンピューターが出来た時に、人間の考え方のルールをコンピューターにインプットするだけで知性を作る事が出来るじゃないかと言う事を真面目に言っていた時期もあったというお話です。私は人間の脳の話をする時には、よく自閉症の人を例に出しています。レインマンと言う映画はご覧になったでしょうか?その中に出てくる自閉症患者(ダスティン・ホフマン asレインマン)は、5桁の掛け算の暗算を即座にこなすけれど、現実の判断(例えば、遊園地に行ってアイスを食べるか、家でテレビを見るかのどちらか片方しか出来ないと言う事実を認識する事)が出来ません。よく、適当に100円球適当に掴むとちょうど10枚になってるとか言いますけど、人間って相当高い暗算能力等のポテンシャルを無駄にしてでも、泣き笑い等の感情にその能力を充てているものなんですね。>>本当は直感で答えを出したんじゃないだろうか、ということを時々考えます。知性って何でしょうね?実は、精神病院に入院する直前、「人語ではなく、抽象的イメージを高度に組み合せて思考していた」記憶がまだ少し残っています。ただ、家族との日常会話に支障を来たすほどになってしまったせいで、縛り付けられて丸一日薬で眠らされたりしました。今から思うと、「非常に酷い躁病状態だった」と冷静に分析出来るのですが、それって結局「こちら側に戻って来た人の、こちら側から見た発言」でしかないですからねぇ。ただ、その時「ef、千尋、今」について考えた事がマインドマップ式表記法でA3に書いてあって残っているんですよね。正直、自分で言うのもなんですけど、「サイコすぎて読む気もしない」んですが、自分が何考えてたのかそのうち辿ってみます。(笑)結局の所、「直感で走り、論理で歩いて追いかける」事が必要なのではないでしょうか。物理や数学の世界には、「どうして思いついたのかは分からないが、説明されれば確かに間違っていない事は分かる定理」がゴロゴロしています。つまり、天才が三日くらい寝ないでハイになってる時に考えついた”思い込み”がたまたま”あってただけ”なんじゃないかと。最近真面目に考えているのは、「何か解決法を必死に考えなければならない問題がある時に、とっとと寝てしまったら、寝ている間に脳の無意識の部分が勝手に考えておいてくれて翌朝には良いアイディアが浮かんでいる」という事って本当にあるのではないかと....(爆)とりあえず、”攻殻機動隊”に次の世代の知性の可能性を感じています。
2008/06/06 18:15 あれ?僕は普通に読めるのですが。とりあえずコピペしておきます。true tears(#12まで) - ヤマカン2008/03/27 (Thu) 23:05:16「ドラマ」を生まれてから一度も観たことがない未開の野蛮人がやいのやいの言っているようだが、この作品はアニメ史に確かな「痕」を残す、偉大なる野心作である。キモオタは『人生』(笑)でも観てなさい。だそうです。ヤマカンは自分で自分のことをキモオタと言ってるのだから、彼は「true tears」ではなく「CLANNAD」を見るべき、というツッコミは可能。それにしても、しばらく見ないあいだに「アルジャーノンに花束を」みたいな経験をしていたのですね。僕の場合はせいぜい酔っ払いながら書いたテキストが難解すぎて、凄いことが書いてあるのか、それとも支離滅裂なだけなのか判断に困ったという経験がある程度。「攻殻機動隊」(変換が面倒)に描かれているような記憶のデータ化、イメージの共有は確かに素敵。メモを取れない状況(自転車に乗っているときとか)では特に。あえてその問題を挙げるとすれば、僕のような凡人にとって思考を身体から切り離すことが出来るのか、というのがひとつ。デカルト唯我論に対する批判でもあるのですが、人間の思考はそれだけを切りはなして論じられるようなものではなく、身体とセットになっているわけです。例えば視覚的なイメージだと、目のついている位置、視線の高さでかなり限定されてくる。「ドグラ・マグラ」では「脳髄はものを考える場所に非ず」なんて書かれていましたね。ここまでいくと胡散臭いですが……。あと、さすがの士郎正宗先生も「考える」という行為に関しては漠然とした説明に留まっているような。だから「ゴースト」というわけのわからない概念が必要になったのではないかと。
2008/06/06 20:35 >>批評こんばんわ。こんばんはナウシカです。日経より「風の谷のナウシカ 文明が崩壊した未来の地球を舞台に、人類を滅亡から救う少女の闘いを描くアニメ」なんだか、読んだ瞬間あれっ?って思いました。でも、最悪内容に一行、映像や技巧に一行、評価に一行、にまで文章圧縮するからプロとも言えますね。でも、この文は何か違和感感じますよね。>>ヤマカンご丁寧にどうもです。どれを読めばいいのか分かりませんでした。情報量の増加が情報価値を低下させる事の一例ですね。受け手のリテラシーが低いとも...クラナドやってない。(”まだ”がつくかどうかは、文章の読み手に委ねるとしよう。)>>アルジャーノンに愛の花束とワライタケを。まぁ、ぶっちゃけ”気のせい”なんですけどね。(爆)格闘ゲームとかしてても、気持ちの持ちよう一つで大きく変わるように”感じる”のですが、結果は一切変わりません。>>攻殻機動隊(一発変換)攻殻の話をしだすと止まりません。(ぉ)SACと2ndへのツッコミに始まり、電脳世界の表現やら素子の能力やら。自転車で思い出しましたが、少佐くらいになると、ネットサーフィンしながら首都高流せるんですね。特殊部隊の人の事だから真似しないように。特に高校生。でも、正直カーナビとか使うなら自動車にHUD(ヘッドアップディスプレイ)装備したらどうだろうと真剣に考えたりしてます。(法律上駄目らしいけど)確か、「現実とは、水溶液の底にたまる沈殿物のようなもの。でなければ、意味や概念などと言うものは存在しない事になってしまう」(1)と言ったような事を人形使いがいっていましたね。イメージの共有が出来たら、受験勉強なんて消滅しそうです。そこで思うのがアニメって、言語を超えたコミュニケーションの一形態になり得る可能性を秘めているのでは? とか。(脳汁120%)まぁ、娯楽品として既に一通のマスコミではある訳ですが、言葉を尽くす代わりにアニメ一本見せて、「今こんな気持ちです...」とか。うまく言えないけど、三歳児にも動画編集出来るタッチパネルとかジョグで操作する機械作って、言葉覚える前の子供にアニメ見せまくったら、動画を繋いで作った独自の映像言語を”喋り”出すんじゃないだろうかみたいな。>>士郎正宗サイボーグが精神異常になりやすい(肉体がないため)とか、実際には脳だけでは駄目みたいな考察もしてはありました。それが、欄外のとこに小さい文字で一々書いてあるんです。(笑)何だか仏教とかかなり勉強してるみたいですね。さて、ここで突然お題を3つ1.ナウシカの紹介文を書け。2.インターネットなんてものはこの世にない。これは正しいか否か。3.いい歳した大人がアニメを見ると言う行為を擁護せよ。(爆)補足、2番はじゃあお前は何使ってんだって話ですが、モノを”穴”などに変えても良いかも。これとか、”イっちゃってた”時に考えた事ですね。3番はあえて、「全然分かってない50代の方々向けの説明」も時にはしてみようと言う趣向ですね。(1)君達、つまり物質宇宙は沈殿物の様な”部分”でしかない。(量子的に見れば不確実な存在だし)そうでなければ意味や無記録情報などというものは存在しない事になってしまう。
2008/06/07 15:05 昨日の夜は懐かしい知り合いと飲み会だったので、ナウシカ見ていません。なので紹介文はパス(もちろん見たことはあるけれど、記憶が怪しいので)。というかそういうことは自分で書きなさい。僕は新藤千尋とスキンシップを深めるので手一杯だ、と言っておきましょう。士郎正宗の欄外説明は、むしろあれが「攻殻」のメインコンテンツという説が有力。あの人の仏教、じゃなくて神道(?)解釈は独自すぎてちょっとついていけない感じですね。特に「2」はお経か祝詞だと思って聞き流していました。「攻殻」の面白いところは、士郎正宗自身が「絵に出来ない」と知っているもの(例えば4次元以上の存在)を無理やり絵にして、欄外で「これは正しくない図だが〜」と指摘しているところでしょう。それなら最初から描くなよ!というツッコミは野暮か。それにしても最近の士郎先生は何書いているのでしょうね?最近はアニメ原作者という感じですが、「アップルシード」を完結させてほしい……。
『図書館戦争』を見ていると「図書館隊って、外国から見れば完全に反乱軍だろ!政府もうちょっと頑張れ」と言いたくなるのですが、せっかくなので、表現の自由を守る上で図書館が果たすべき役割について理論的に考えてみたいと思います。
「表現の自由」について最初に考えるべき点は、自由と秩序の関係についてです。政府や規制団体は自由な表現に秩序という枠をはめようとする悪者だ、ホッブズ的な「原始状態」が最も自由な社会である、と言えるのかどうか。
確かに何でもできる可能性がある社会こそが真に自由な社会なのかもしれません。しかし、可能性だけあっても、それを実現する現実的な手段がなければ「絵に描いた餅」でしかない、とも言えるわけです。「全ての日本国民には軽井沢に別荘を買う自由がある。ただし金は出さない」がナンセンスなように。特に「表現の自由」の場合、それを発表する場の問題と、制作費を集めるための商業性の問題と切り離して考えることは出来ないでしょう。
例えば現在のテレビアニメの場合、過激な表現に対してはどこからともなくクレームが飛んできて、放送中止に追い込まれることがある。そのような状態では作品のスポンサーになろうという人が出てくるわけがないので、「自主規制」という秩序を受け入れることで作品を創出する現実的な手段を得ています。
このような「自由と秩序」の関係は、交通ルールと自動車の関係に喩えられるでしょう。交通ルールなんてなければもっと自由に車を走らせることが出来るかもしれない。しかし、そもそも交通ルールがなければ危なくて外に出ることも出来ません。僕たちは、交通ルールという秩序を受け入れることで、結果として行使できる自由の量を増大させているのです。
ここまで「自由は秩序の存在を前提としている」という当たり前のことを確認してきましたが、次に問題とされるのは秩序の質の問題です。秩序があれば良いというわけではなく、行き過ぎた自主規制が表現の幅を狭めるように、あるいは政府の規制がパターナリズムとして現れるように、悪い秩序はしばしば表現を萎縮させます。これを回避し、秩序を良い状態に保つためには何が必要か。まずは秩序を生み出す3つの主体「政府」「市場」「中間共同体」について考えてみましょう。
政府が生み出す秩序は「個人の権利保護」です。週刊誌や新聞のゴシップ記事を一応は規制するように、市場が暴走した際にそれを抑える力を持っています。また、「強い政府」として法による支配を中間共同体まで貫徹させることが出来ます。しかし、こうした特性はしばしばパターナリズムに転化し、過剰な規制を市場に対して押し付けることにもなり得るでしょう。
市場が生み出す秩序はそのまま「市場原理」です。市場の要求に従って表現者に資金を供給する役割を果たしますが、市場の暴走によって人権が損われたり、マイノリティの表現活動がその機会を失う可能性も存在します。
そして中間共同体についてですが、これについてはいくつかの説明が必要となるでしょう。中間共同体とは、ごく簡単な理解だと「市民と公共を媒介する自治組織」のことです。クラブ、教会、結社などが具体例として挙げられますが、どれも日本ではあまり馴染みがないですね。地縁や血縁によって結ばれた共同体がそうであるように、共同体全体の利益を確保するため外部に向けて働きかけたり、外部の暴力から構成員を保護したり、というのがその本来的な役割です。
「表現の自由」との関わりにおいては、図書館組織が中間共同体の役割を果たしているのではないか、というのが僕の考え。つまり、政府の表現規制に対しては自己権益を守るための異議申し立てを行い、市場原理に対してはその中で生き残れない表現(学術書など)を保護します。ただし、その機能が行き過ぎると、『図書館戦争』に描かれているように、公正な市場原理や社会全体の公共的利益を無視し、自己の既得権を強硬に主張し、共同体の構成員を動員し政治的圧力をかけるという弊害をもたらすことになるでしょう。
以上で見てきたように、3つの秩序は互いにその欠点を補う、あるいは牽制しあう形で存在しています。
市場の暴走に対しては、政府の規制と、中間共同体による市場原理とは異質な原理に基づく表現保護が。
これら三者の均衡の上に成り立つのが「良い秩序」であり、その中でこそ表現の自由が最大限に発揮されます。しかし、終身雇用制の中で構成員との繋がりを強めた会社組織や、自己権益の保持を優先する官僚組織、社会正義の概念を欠いたまま自己目的化した各種教化団体などが、ある種の中間共同体として三者のバランスを崩すほどの力を持っているのが現代の日本社会です。
それだけに、図書館が中間共同体としての本来的な役割―内部倫理の啓蒙と市場原理に基づかない表現保護―を果たすこと、そして政府が「強い政府」として表現の自由を末端まで貫徹させることが重要な課題であると言えるでしょう。
タイミングを逃して今まで見ていなかったのですが、名作揃いの劇場版「クレヨンしんちゃん」の中でも最高の作品でした。号泣したよ!遠い昔に失ってしまったものの残り香に固執する大人たちと、今と未来に希望を持った子どもたちの対立というありふれた話が、情感溢れる演出で魅力的に描き出されています。
物語の骨子を大雑把に書いてみると、かつて未来に果てしない夢を抱いた大人たちは、それほどでもない現代に失望し、20世紀の夢は失われたと考えた。しかし、現代に生きる子どもたちは決して不幸ではない。今も同様に魅力的な夢があり、幸せがある。問題はそれに気づくかどうかだ……という話。
個人的にぐっと来たシーンはふたつ。ひとつは、少年期の回想を経て現実に帰ってきたヒロシがおいおい泣いているところ。もうひとつはしんのすけの「オラ、大人になりたいから!」というセリフ。
ヒロシは、一度失った「懐かしいもの」を再び失う痛みを経験することで、その後の「家族のいる幸せを、あんたたちにもわけてやりたいくらいだぜ!」というセリフを紡ぎだすことが出来ました。また、しんのすけは「大人になりたい」と叫ぶまでに、長い階段を登りながら転んだり倒れたりして傷だらけになっています。
未来に向けて歩き出すことは単純に幸せで素晴らしいことであるとは言えないず、そのとき同時に「何か」が失われている。未来を獲得した「喜び」と合わせて、それに伴う喪失の「痛み」が描き出されている。こういった点に、ただ感動させるだけに留まらない物語の深さを感じます。

 

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