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合いとは?/ プロミス

[ 491] 片桐のゆるくてゆるぎない『学び合い』のすゝめ - 『学び合い』
[引用サイト]  http://manabiai.g.hatena.ne.jp/F-Katagiri/

「下流志向」には、文学や、音楽は「有時間的」に読む(感じる)ものであると書いてある。例えば音楽は、今聴いている「音」だけでは音楽を感じることができない。もうすでに聞いた余韻と、これからくる音の予想で音楽を味わうのである。
文学も全く同じで、今読んだことがすぐ理解できずに、後を読んだことによって、理解できないことが理解できるというものだ。
しかし授業で文学を扱うときには、無時間性のものとして扱ってしまう。子どもたちに文章の最初から順を追って「わからせながら」扱う人が多い。「あともどり」をさせる余地のないまま、教師の読み方(読む手順)を押しつけていく。
しかし、文学の読み方(味わい方)なんてものは、人それぞれで、疑問に持つところ、わからないところも人それぞれだ。後戻りしたい箇所も全く違う。教師が考えさせるところを押しつけることにより、じつは子どもたちは考えることがなく授業が進んでいくという矛盾がある。
実は、そのクラスの担任が、他の先生に、「体育祭の選手と役員決めの時に、『オレはイヤだ』なんてことばっかり言って、全く決まらなかった。」ということをぼやいていたのを小耳に挟んだからだ。
語った後の子どもたちの活動は今までに全く予測もつかないものだった。立ち歩きが始まり、情報収集に出る者、黒板に出て書いて、みんなを納得(説得)しようとする者、まさに『学び合い』の現象が現れた授業だった。
語るというのは重要だなぁと思うと同時に、カタルシス(だじゃれ?)を覚えてしまった。語りすぎないようにしなければ。
他の学習学級活動でもあんな感じになってくれればと願う。生徒指導は教科指導でというのがよくわかる。
高校教師という職につき、常に悩まされてきたのが「学ばない子どもをどう学ばせるか」というものだ。これは高校だけではなく、全ての校種での悩みの種だろう。
この問題の一番の解決策は「あきらめる」というものだ。「学ばない本人が悪い」と理由をつけ、放棄(放置)する。私もその魔力に取り付かれたときもあった。また、そう考え、放棄している教師はたくさんいる。
じゃあ、解決策ということで、「勉強して大学に入ろう!」とか、「勉強しないと赤点取るぞ。」とか、「勉強しないと職に就けず、生活できないぞ。」とか、そういう正・負の動機づけで頑張らせようとする。でも、学びを放棄した子どもにとって、そんなのは関係ないのである。むしろ、「みんなが学ばなければ、みんなが競争から抜け出て、楽になる。」ということを体感的に知っている。
次には、おもしろおかしい授業を考える。授業に関心を持ち、授業中寝ないようになる。しかし、その時間だけである。「学び」が身についているわけではない。これでは授業が終わったり、学校を卒業したら学ばなくなる。
母語の学習を始めたときには、これから何を学ぶかということを知らなかった。これがたいせつなところです。(中略)
つまり、期限的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まるものなのです。というよりむしろ、自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びをどう気付けているのです。(中略)
学びのプロセスに投じられた子どもは、すでに習い始めている。すでに学びの中に巻き込まれしまっているのでなければならないのです。
すでに交換のゲームは始まっていて、気がついたときには贈与する義務を負うプレイヤーとしてゲームに参加しているというのが交換というゲームの基本的な構造です。これは言語の場合も、経済活動の場合も同じです。
かつて言語を習得するというゲーム(「学び」)をおこなっていた子どもたちをゲームに引き戻す(「学び」に向かわせる)には、「もうゲームは始まっていて、あなたはプレイヤーの一員ですよ。」と思わせる必要があるということだ。
どうするか。『学び合い』である。ゲームに参加しているという自覚が無くても、「もう、ゲームは始まっていて、みんなはもうゲームをプレイしていますよ。と思わせることにより、学びのゲームに引き戻すことができる。というか、それしかできないような気もしてきた。
究極的には、実質クラスの誰一人ゲームに参加していなくても、教師の語りによって、「ゲームは始まっていて、みんなプレイしていますよ。」と個人に思わせることにより、『学び合い』文化を創っていくのが教師の仕事だ。
夜、長男がウソをついた。昨年はよくウソをついていたが、今年はそれほどでもなかったので、久しぶりに付いた。
夕食の時私が「連絡帳は?」と聞いたら、「配り係が配らなかったからないや。」と答えた。連絡帳は親がそれを呼んで、ハンコを押さなければならないのだ。
配り係が配らないで、連絡帳が集まったまま先生が放置するはずはないなぁと思いながらも、まぁ、そんなこともあるかな?なんてことでその時は受け流していた。
そうしたら後になって長男は連絡帳を持ってきた。「どうしたの?」と聞いたら「連絡帳袋じゃない別のところにあった。」と答えた。「じゃあ、なんで配り係が配らなかったなんて言ったの?ウソ言ったんだね。」と穏やかに言ったら「うん」と言って泣き出した。
「最近ウソを言わなかったけれど、またウソを付いたね。連絡帳が見つからなかったとき、どうすればよかったの?」と聞いたら、「見つからないからもう一度探してくるって言えばよかった。」と泣きながら答えた。私は「そうだね。ウソ付いちゃだめなんだよ。ウソ付くと誰にも信じてもらえなくなるんだよ。」と言った。
赤坂さんのブログの記事があったので、頭ごなしに怒るのではなく、どうすればよかったのかを考えさせてみました。赤坂さんの言いたいこととはずれているかもしれないけれど、私が怒鳴らずも泣き出したということは、本人は悪いことをしたと思っているからなのかな?
その間、次男は私に話しかけたり、兄ちゃんをかまったりと、気まずい雰囲気をちょっとでもなごませようと行動していました。なかなかいい味出しているぞ、次男!
よく知らない分野のことについて、誰が技芸にすぐれており、だれが自分をあやまたず目的地に連れて行ってくれるのかを決定しなくてはならない。でも、初心者はその定義からして、「目的地」がどこだかよくわかっていない。自分がどこに行くのか知らない人間が自分を目的地に連れて行ってくれる人間が誰であるかを言い当てなくてはいけない。……
でも、僕達はそういうことを平気でやっている。まだ学んでいないことについて、「このひとならちゃんと教えてくれるに違いない」という直感を得ることができるからです。
なんだか漠として空をつかむ先に「学び」というものが存在する気がします。あーだこーだ試行錯誤した後、知らぬ間に「学んでいた」というのが現実じゃないでしょうか?「思いもしないこと」が身についたり、「思いもしないこと」に気がついたりというのが「学び」にはあります。
『学び合い』でもそういうことが起こります。教えていたつもりが、実は気づかされたり、誰に何を聞けば自分がわかるか何となく解っていたり……。理由は明示しないのですが、試行錯誤の後に、ちゃんと身についている。子どもの活動を限定しないことに原因がありそうですが、それ以上に、教師が目標の到達点で待っているのではなく、教師が目標を指さして、「向こうだよ」と言っているからなのかな?と思います。

 

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