利便とは?/ プロミス
[ 186] J-CASTニュース : ドコモ「iモード」表示項目を競売 「利便性を損なう」と事業者から批判
[引用サイト] http://www.j-cast.com/2008/05/30020923.html
NTTドコモは、携帯電話ネット接続サービス「iモード」の公式サイトに表示される項目の一部を競売にかける。これまでは利用者が多い順に表示していたが、入札額の高い順に切り替える。公式サイトでの収益をあげる狙いと見られるが、頻繁に利用する項目であるだけに「ユーザーの利便性を損なうものではないか」といった批判の声もコンテンツ事業者から上がっている。 「この10個のサイト(項目)はほとんど同じ順位が続いており、替わり映えがなく、新しいサイトが作られてもなかなか昔からの上位サイトのなかに入れない。(入札額順にすることで)ユーザーの選択肢が増える可能性がある」 と競売を導入する理由を説明する。同社は、ユーザーには「プロモーションサイト」であることを明示するとともに、毎月競売を行うとしている。 その一方で、利用者数の多いコンテンツ事業者の反応は冷ややかだ。ゲームコンテンツを配信しているジー・モードは「ドコモさんが決めたことなので従わせていただくほかない。入札もまだ始まっていないので、今は様子見の段階で何とも言えない」と話すが、不満を露にするコンテンツ事業者も少なくない。 「困ったもんですね。毎月の入札ということでコストが見えなくなり、戸惑っています。(『メニューリスト』は)公共性の高いものですから、お金でランキングが決まってしまうのはいかがなものなのか」 と話すのは、メニューリストの項目で自社サイトが上位に位置しているコンテンツ事業者だ。同社は運営コストが、「競売」制で全く予測できなくなり、「auやソフトバンクまで競売を始めたら大変だ」と漏らす。 「今まで良いコンテンツを作れば、何もしなくても来ていたお客さんが、お金をかけなくては来なくなるというのは明らかにデメリット。一体どういう経緯でこんなことになったのか。今までドコモの『メニューリスト』を信頼して来たお客さんの利便性を損なうもの。ユーザーへのサービスを第一に考えて欲しかった」 コンテンツ事業者にとってみれば、良質のコンテンツを作ることで現在まで「メニューリスト」の上位に食い込んでいたのにもかかわらず、ユーザーの利便性抜きで、「カネ」が基準になってしまうのは納得できないというのが本音のようだ。なかには、「うちはドコモと共存共栄ですから、従うしかありません」と、正面から批判しない会社もある。 息子とゆく夏の北海道普段は言えない、親父のカッコイイ戯言も北の国ならさらっと言えるかもしれない。息子と行くならこんな北国。おすすめです。 エイガ探偵団気になる映画をフレッシュな視点でチェック!日本ジャーナリスト専門学校の生徒有志が、遠慮抜きに映画を批評、見所を紹介 ソフトバンクCMのホワイト犬 「お父さん」になった理由東大法学部就職戦線異状アリ 財務省から超高給外資へ出会い喫茶は「売春の温床」? 「交通費」名目で女性に金渡す 「プロポーズに関する意識調査」 ブライダルダイヤモンド専門店『アイプリモ』調べ川田亜子は「適応障害」? ブログに書いた数々の「死の兆候」東大卒キャリアいなくなる? 官僚バッシングに賛否両論「報道ステーション」ミス多発 古舘キャスター「申し訳ありません!」「ナカムラが俺の犬食った」 俊輔に衝撃「人種差別発言」蔓延防衛次官退職金7000万 公務員「超安給料」説の?世界新記録続出「スピード社水着」 日本代表どうして着用できないのか |
[ 187] 『利便性の向こう側に見える風景』(後編) - カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 楽天ブログ(Blog)
[引用サイト] http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200804100000/
携帯電話の発明は、自動車の発明にも匹敵する人類学上の大発明なのかもしれない。いや、私が当今の技術革新の事情をよく存じ上げていないだけで、そんなことは当然だと言われるかもしれない。自動車は、人間のライフスタイルを一変させた。なかでも、空間の観念を大きく変えたことは大きな変化であった。 以前は隣の町まで行くのに一日かかっていたところが、一時間で行けるようになった。空間が圧縮されたというわけだ。人間の移動範囲は、自動車の発明以後格段に増大した。技術の進歩とともに、遠隔地までの移動時間はより短縮されるようになる。これにより、人間の生活の中に、スピード化という概念が生まれた。大雑把に言って、それ以前は人間は自然のリズムの内部で生きていた。日の出とともに起床し、土地に縛り付けられるようにして収穫し、日没とともに一日を終える。一日の行動は、自然によって制約されていたともいえるし、自然が決定していたともいえるだろう。 しかし、自動車はこれまで不可能だった遠隔地に人を運び、荷物を積み、必要があれば車内で一夜を明かす移動住宅にもなる。しかし、利便性が増すだけの発明なら他にもいくらでも見つけ出すことが出来るだろう。人類学上という意味は、人間の生活を一変させるような道具は、もはや利便性だけを追及する道具であることを越えて、ある種の人間の分身であり、欲望の代理となったというところにある。人々は、高速で走る自動車の能力をあたかも自分の能力のように錯覚し、美しい機能美には愛着以上のものを注ぐ。そう、自動車は身体を自然の条件から自由になった異能の分身であり、それゆえに憧れの対象でもあり、虚栄心の具現化という意味を担うようになった。自動車の発明は、利便性の獲得と同時に、人間から野生の脚力を奪っていった。失われた脚力は、トレーニングジムで回復することができる。しかし、人間が取り付かれた「万能への夢」は、以後、人間の内部に不釣合いに巨大化した万能への欲望という名の恐竜を育てていくことになった。 産業資本主義の時代の最大の発明が自動車であるとするならば、消費資本主義の時代の最大の発明が携帯電話だということになるのだろうか。この手のひらサイズの小さな機械が、人間の生活を劇的に変えようとしている。動きながら他者と交信し、音楽を聴き、手紙を書き、料金を支払い、小説を読むことができるようになった。しかし、この発明が本当は何を意味し、人間の未来に何をもたらすのかということになると、実はあまりよく分かっていない。 携帯電話が人間の機能の何を拡大し、延長したかは明白である。自動車が空間と時間を圧縮したとするならば、携帯電話は空間も時間も消してしまったのである。地球の裏側にいる人間と、リアルタイムでコミュニケートすることができる。それ以上に重要なのは、移動しながら常に情報を発信し、他者と交流できるような機能を人間に付け加えたということである。便利になったものである。しかし、そもそも人間は携帯電話がもたらしたような機能、すなわちいつでもどこでも他者とコミュニケートする必要があったのだろうか。いや、もっと別の問い方をしたほうがよいかもしれない。いったい人間の精神の何が、いつでもどこでも他者とコミュニケートしたいという欲望を喚起したのだろうか。 周知のように、携帯電話が爆発的に流行するきっかけを作ったのはティーンエージャーである。女子高校生と言ったほうが適切かもしれない。携帯電話が大流行する前に、以前は考えられなかったことが日本中に瀰漫していた。私には当時、丁度その当事者たる娘がいたので、その生態を観察することができた。娘は襖ひとつを隔てた個室で寝起きしていたのだが、私は、電話代の請求書を見て愕然とすることになる。一気に数十倍になっていたからである。娘はほとんど夜通し、電話をかけていたのである。しかし、毎晩、夜通し話をするなどということがほんとうにあるのだろうか。私はにわかには信じられなかった。 しばらく後、この夜通しの電話というものが、相手と通話するためではないということが判明することになる。どういうことかというと、彼女らは必ずしも、受話器を耳につけたまま話をしているのではなく、ただ通話状態のままベッドの脇に置いていたのである。このような使い方はあるいは、私の娘とその相手だけに特有のものであったかもしれない。しかし、あちこちで、電話代が跳ね上がって悲鳴を上げている親の声が聞こえてきたとき、同じようなことが起こっているのではないかと容易に想像することができた。彼女らは、電話というものに通話するということとは別の機能を発見していたのである。例えば彼女らはお互いに自室でテレビドラマに興じている。そして、必要があれば受話器に向かって大きな声で「ねえ、いまのどーだった。ちょーうけるよ。」と叫ぶのである。相手のベッドサイドに放置されている受話器から、この声が漏れてくるのである。携帯電話が爆発的に流行するのは、それから間もなくしてであった。 社会学的な理屈を述べるなら、携帯電話の進行と核家族化には相関関係があるということになるだろう。家族が崩壊してゆき、人間は砂粒のように孤立化していった。しかし、人間はどこまでも孤立を耐えることはできない。そこで、どこかで他者と絶えず繋がるためのツールを発見したというわけである。もはやひとと会うためにアポイントメント、場所の確保、時間の調整といった煩瑣な手続きは必要ない。風呂やトイレの中でも、悩みを打ち明けたり、仕事の相談をしたりすることができる。話が不調に終われば、一方的に会話を終わらせるスイッチを押すこともできる。便利このうえない。 しかし、事はそれほど簡単ではないように私には思える。コミュニケーションとは、必要なとき、必要な相手と、自分の都合に合わせて交信することなのだろうか。嫌いな相手と、気の乗らない時間を共有することは、ただ避けて通るべきことなのだろうか。本当は、コミュニケーションの必要性とは話の通じない相手と共生するところに生まれるものではないのだろうか。口当たりがよく、柔らかいものだけを食べていたのでは人間は健全な成長ができない。私たちは身体的、心理的なところで、失ったものについては、まだカウントしていない。 失ったものは、私たちが利便性から獲得した時間そのものが持っていたものである。他者と会うために何時間も、ことによったら何年も要した時間も、当初から意味のない時間であったと言うことはできない。経過した時間は無駄で不要なものだったわけではない。その間、私たちの周囲には、天候が移り、街角の風景が変わり、自分の中の何かもわずかながら成長し、変容していたはずである。他者と出会うということの中には、私が通り過ぎてきた時間と同じ長さの、他者が通り過ぎてきた時間がひとつの場に引き寄せられるということに他ならない。ふとした相手の表情に表れる陰影は、この時間が作り出したものである。私たちは時間を迂回しなければ、本当にはリアルな他者と出会うことはできないのだ。 出逢って五分が経過した後の自分は、出逢う前の自分ではない。印象が変わり、感情が動き、相手に対する理解の度合いが変わる。リアルであるということの意味は、この微細な変化をお互いに受け取ることであり、それを担保しているのはリアルなものを感受する人間が生まれながらに有している野生の感性である。リアルなものとは時間的・空間的に無限の多様性をもつ世界である。時折相手はえもいわれぬ表情をする。この表情には形容する言葉がない。それでも、それが何を意味しているのかについて、私たちの感覚は捕捉することができるのである。受話器の向こう側から届けられる声にも、この変化の残滓を聞き分けることはできる。しかし、多くの場合それは声が大きいか小さいか、高いか低いか、ノイジーかクリアかといった二分法的な差異でしかない。それは、ほとんど音声データのカテゴリーであり、現実の縮減モデルなのである。 問題はこの先にある。この習慣を繰り返しているうちに、人間は往々にして、縮減化されたモデルによってしか、表現することができなくなる。あるいは他者をカテゴライズすることに慣れきってしまう。生まれてくるのは携帯電話的な人間であり、せいぜい携帯電話に取り付かれた多様性を失ったやせ細った隣人なのである。コミュニケーションの利器が、実はディスコミュニケーションを加速させる、ということにならなければよいが。 「悲しいだけの映画も楽しいだけの映画も、私は撮りたくない。なぜなら、人生はそういうものではないから」 「願わくば作品そのものから、今の社会に対する私の社会的、経済的、政治的視点、それから道徳観や愛を感じ取ってもらえますように。」 若者のおもちゃとして(勧められないおもちゃですが)、或いは本当に必要に迫られて、というのならともかく、ただの主婦でさえ持っている事が私には信じられません。 |
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